雨どいを作って数日。「稲刈りも終わったし、そろそろ降ってもいいよー!」とつぶやいていたら、降りました降りました。久しぶりのゲリラ豪雨(…って程でもないかな)。
僕は外の仕事に出ていたので見られなかったのですが、あっという間に水が溜まって、タンクからドバドバ溢れ出ていたとのこと。スゲー!!
溢れんばかりに満タン。
蛇口からも、快適に出てきます。
「雨水溜めて、洗い物や農作業に使えたらイイね」との思いで作ってもらった雨どいですから、タンクに一杯になってる水を見て素直に「使える使える!やったー!」って喜んでいればいいはずなのです・・・が、タンクから溢れてなお注がれ続ける水を見ると、何故かもったいないように思えてくるんですね。「タンク、もう1個あってもいいか?」「あと2、3個あってもすぐ溜まるんじゃない?」「こぼれてく水、もったいない!」・・・と、損した気分にすらなってくるのが不思議。
何ですかね、この感覚・・・。
まあ確かにこれだけ上手く溜まるなら、タンクを増やすことで飲み水や調理以外の水はすべて雨水でまかなえそうですし、それは決して悪くない案なんですけど。
とにかく、「もったいない」がいつの間にか「モウケタ」「ソンシタ」って話になって、やがて「もっとたくさん」「もっと大きく」「もっともっと!」・・・になりがちなのが、人間。
「もっともっと!」を繰り返して、今のような肥大化した歪な世界が出来上がったんですから、自分の立ち位置や適正規模を図り間違わない目やそれを確認する習慣はいつも持っていなきゃなあ、とあらためて考えたりするのでした。
いやいや、雨どいは最高なんです。
雨どいはスゴイのです。
雨どいはカッコいいのです。
理にかなってるし、かなーりサスティナんです。
つまり問題は、雨どいじゃなく、それを使う側の意識だってことですね。
“文明”はどう言い訳しようと、本質的に“反自然”の発想にもとづいています。
そして、今流行りの“持続可能性”も結局、人間中心、文明維持の考え方であると思います。
このまま人間が生き延びるためにどうするか?って話ですから。
文明の本質(反自然的思考や暴力性)を認めたうえで「どう使う?」っていうのが、たぶん、持続可能な技術のスタンスなんじゃないでしょうか。
決して“イイコト”してるわけじゃない。
せめて、100年先くらいは想像して、この先の人々が人間らしくいられる世界を“維持”する。
そのくらいの節度を持って生きる。
そのために、技術を選択的に、制御しつつ使う。
ないから使わないんじゃなく、目の前にあっても使わない。
・・・試されてますねえ。