造形も、あまりしません。
描くこと、つくること自体は好きだから、もちろん時々はやるのだけれど、本当に「時々」です。
本当は、時間の半分、いやせめて1/3くらいはゲージツに時間をとりたいなーなんて思っていたのですが。
「忙しすぎてできない…」「もっと時間に余裕が欲しい…」とも思っていたけれど、ちょっと違う気もします。
「どうしてもやらなきゃ!描かなきゃ!」という切迫感のようなものがなくなってる気がするのでした。
昨日の午前中も、びっしり畑の整地、種まき、苗の定植などしていました。
そんな作業をしながら、あらためて気づいたこと。
それは、「ああ、これは、デカい面に絵を描いてるようなものだなあ」ということです。もしくは、「2aの敷地にオブジェを造ってるようなものかもしれないなあ」。
以前もこのブログに記した気がしますが、やっぱり「畑は作品」です。
少なくても、僕にとってはそう。
絵のような、造形のような、不思議な作品づくりをしている感じがします。
しかも、それは僕で決して完結せずに、時間をかけ、イキモノたちの手を借り(というか、彼らが主役。雑草たちもね)、僕の意図を常にはるかに凌駕しながら出来上がっていく作品・・・。
苗を植えるのも。
(これは北海道カボチャです)

タネを播くのも。
(ここには八列トウモロコシと黒大豆を播きました)

畑を起こす作業も、「キャンバスの下塗り」もしくは「オブジェの基礎づくり」みたいだし、3月から始まる苗立ても作品づくりの一過程だし、もちろん作付け計画は「作品案」そのもの。
数日に1回は土手に登って、その変化を楽しみつつ、新たな想像を膨らませます。
「あそこはこうしたらいいかなー」

いや、それでいえば、昨秋のタネ採りから今年の作品づくりは始まっているし、雄鶏の鳴き声も、ヒヨコの踊るように駆ける姿も、干してある30個ほどのヒョウタンが風で「ボーウボーウ」「ガランガラン」と鳴るのも、全部作品のような気がします。

ハウスに植えたヒョウタン。伸びていく蔓の姿はまさにゲージツ的!

昨年のキャベツが美しい花を咲かせています。

連綿と、「塗り直し」「再構築」を繰り返しながら続く「作品づくり」。
僕にとっての自給的生活は、まさにそういうものなんですね。
「畑は作品」というより、「暮らしが作品」なのかもしれません。
だから、あえてわざわざスケッチブックやキャンバスを取り出したり、石膏を買ってきて溶いたりする気になりにくいのだなあ、と、昨日種まきしながら思ったのでした。
「芸術はそれぞれの場所、状況で、もっともたくましく、純粋、聡明に生きた、そのアカシであると私は思う。だから世界のあらゆる場所で生まれなければならない。」
「芸術のあるところ、そこが世界のセンターであり、宇宙の中心である」
「私には、生活の信条というものはない。芸術の信条があるだけだ。」
これらは、僕の敬愛する岡本太郎氏の言葉。
僕が自給的生活に向かったきっかけはどちらかというと「社会的な価値」からでした。今の社会だからこその「意味」を考えていました。
けど、今はたぶん違います(もちろん結果として僕のやることが何らかのメッセージになれば面白いとは思うけれど)。
僕はきっと、自分の「芸術の信条」によって、こんな暮らしをしています。
だから、体はこんなに疲れてても、心が満ちてるんだろうな。
ほら、ジャガイモもインゲンも芽が出てきましたよ。
日ごと、彼らとの共作。
これって、まさにモダンアート。
