2015年02月27日

エコビレッジと僕A

先日、5年間一緒にやってきたNPO法人から離れたことをここに記して以来、お会いする方から心配する旨の声かけをいただいたり、わざわざ電話でお気遣いを伝えていただいたりもしました。
本当にありがたいことです。
どうやら、「体験塾が終了して余市での学びの場に完全移行」みたいな噂?が先行していたようなのでした。

僕自身は、ここ1〜2年大きかったストレスが解消されたので、経済的な面はキビシイし寂しさもあるけれど、前向きな気分です。

一つだけ、誤解があるようなので追記しますと、僕は「代表の方との意見の相違」で辞めたのではありません。
集団で活動する以上、意見の不一致など常にあることです。実際、最初から「考え方の違い」はありました。
でも、そんなのは当たり前のこと。議論し折衷案を見つけていくことがグループでやることのオモシロさだと思います。むしろ僕は、「一人で決めてやっていく」よりも「自分の意見が半分しか通らなくてもグループでやっていく」方が好きです。
ただ、その代表の方が「公的に発言している理念」には僕だってほぼ同意できるのですけれどね…(だって理念自体は「総論賛成!」しかしようのないものですから…。問題は、その「発言」が「現実」とは乖離している点であり、それを放置してしまう側近の方々への諦め。それが「僕が辞めた理由」でした)。

なので、先日の記事でも「代表の方との個人的な相違点」ではなく、「団体としての違和感」を原因として書いたつもりです。
実際、その団体には4名ほどの運営委員と10数名の正会員さんがいますが、ほとんど横のつながりはなく、「代表者とAさん」「代表者とBさん」「代表者とイトウ」というように、結局代表の方との個人的関係がすべてでした。
「<民主的な、多方向の関係性をもつチーム>を求めたのがそもそも場違いだったんだな」と今でも思っています。そもそも「その代表の方がつくったグループ」なのですから、その方がやりやすいように運営されるのも当然のこと。僕のように、看板はどうであれ「ワンマン」が苦手な者はやはりいられないのです。



ということで、今後は、小さく歩みはゆっくりでも建設的な意見を交わらせながら「創っていく」ような活動を目指していこうと思います。
僕はほんと「階層」が苦手。権威主義がキライ。自然界のような「多様なかかわり」が好きです。
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そう!
味噌を作ってくれるいろんな微生物たちみたいなかかわりが、僕は好きなのです。
そこには圧倒的な主役や中心はなくて、でも、状況次第で入れ替わりながらググッと活躍する子達がいたりして。
小さな力が集まって、時間をかけて、複雑多様なかかわりで熟成されていくようなコミュニティを育てていけたらと思っています。必要な時間は、省略しないでかけたらいいんだよなあ。



と、いうことで、「エコビレッジ」です。
日本で使われる「エコ」という言葉が非常に商業的で中身のないものになっているので、「エコ・ビレッジ」という言葉もどこか恥ずかしさを伴うのですが(そんなことないかな?)・・・
本来の「eco」はすごく奥深い意味を持っています。
「ecology」は「生態学」を意味し、「ecosystem」は「生態系」のこと。
「生物同士の関係性」「生物と物理的環境の関係性」の学びであり関係性そのものを指します。つまり本来の「eco」は「地球に優しい」とかそんな抽象的で人間の主観によるような話じゃなく、「関係性」「つながり」のことなのだと思います。

だとすれば、僕が実践し、共有していきたいと考えている「自然環境とのつながり」「他のイキモノとのつながり」「人と人のつながり」を要とした暮らしの場と理念がぴったり合ってしまいます。

僕自身が「エコビレッジ的な生活」=「エコビレッジライフ」を楽しみながら実践し、その体験を興味のある方々にもシェアしていく・・・・
5年間(主催者となって3年間)やってきて、最初はあまり馴染まなかった「エコビレッジライフ体験塾」という名も、「看板に偽りなし!」と胸を張れるようになったと自負しています。

そんなわけで、今年も通年でかかわっていただくコースをメインに、エコビレッジライフ体験塾を運営していきますので、よろしくお願いします。
体験塾2015、受講説明会は3月15日(日)からスタートいたします。

*エコビレッジと僕、Bでは僕なりの「エコビレッジ構想」を少し記したいと思います。


posted by 野良人イトウ at 20:26| Comment(9) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月15日

エコビレッジと僕@

ちゃんとした報告が遅れましたが、昨年12月をもって、所属していた「北海道エコビレッジ推進プロジェクト」というNPO法人を離れることになりました(…別に正式に会員を辞める手続きをしたわけでもないのですけど…NPOってそんなもの?)。
それに伴い、団体の事業の一つとして行っていた体験塾も、今後は完全に独立したカタチで運営していくことになります。
法人とのかかわり方は数年前から迷っていましたし、体験塾を続けるかどうかも決断しかねたのですが、応援してくださる方が多いこと、僕自身もすでにライフワークとなっていることから、もうしばらくはこの名で続けていこうと思っています。
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団体からはすでにほとんど情報が来ないので状況がわかりませんが、どうやら昨日法人の総会があったようです(そこで僕も理事を辞めたことになるのかなあ?)。

そんな昨日、本当にたまたまなのですが、5年前に僕が来るのと入れ替わりでこの団体の活動から離れた方と食事をする機会がありました。
開口一番、「おめでとう」と言ってくださったその方には、越してくる時点で「搾取されないように気をつけて!」と大変心配していただき、その後も何かと気にかけていただいていました。
食事しながらいろいろ振り返り、今後のこともいろいろ話したので、この機に「辞めた理由」や「エコビレッジについて思うこと」を少しまとめて記しておこうと思います。



まず、法人を離れた理由です。
伝え出すと愚痴のような膿のようなものがデロデロと出てきちゃうので、何を記すがすごく迷うところです(う〜ん・・・)。

一言で言うなら、「諦めた」・・・いや「疲れた」でしょうか。
「僕の倫理観に照らすと不信感ばかりが募る状況」を「変えられなかった」ことが一番の原因なのですが、それは団体が途中から「変質した」というよりも、自分なりに数年間少しでも良くなるように努力してきたけれど、「結局何も変わらなかった」「変えられなかった」ということです。
徒労感と不快感に耐えられなくなったのでした(昨日お話した方曰く、「5年前と同じだね」)。

「団体」「法人」とのかかわり、と書いていますが、5年経ち、参加者が有機的にかかわり機能する「チーム」には遂に向かいませんでした。代表の方の「私的応援団」の域をこの先も出ることはないだろう、と僕は感じています。
「良い」「悪い」の話ではないと思います。「BOSS」と呼ばれる方が中心にいて、それを「支える人たち」で構成される組織はいくらでもあるでしょう。
ただ、僕がイメージする「エコビレッジ」というコミュニティにはそれは馴染まないと感じたし、そもそもそういう(イエスマンのみで構成されるような)集団が僕は好きではなかったのです。


等身大である、ということも重要だと僕は思っています。
これまでの社会のオルタナティブな存在として、新しい暮らし方、社会の在り方を求める「エコビレッジ」なら、尚のこと「適正規模」「身の丈」には慎重であるべきだと考えています。

たとえば、ある人が「団体A代表」を肩書きとして「私たちは@をしています。」「私たちはAをしています。」「私たちはBをしています。」と紹介するとき、聞く側はその「私たち」は当然「団体A」のことだと考えるはずです。
ところが実は@〜Bの活動には「団体A」の人たちはほとんどかかわっていなくて、90%以上それぞれ全く違うグループの人たちが事を成しているとしたらどうでしょう?
「<私たち>はこんなにいろんなことをやっています」といくら言われても、<私たち>って誰?と思ってしまいます。

「私は」よりも「私たちは」が伝えるイメージは、多くの人の信用・信頼を得やすいのでしょうね。

そして、「団体」「法人」の体を持つことによって得られる「信用・信頼」を目的とするなら、「団体としての質の向上」が優先順位の低いものになるのも仕方のないことです。
目標に向かい、対話を重ねて継続的に活動を共にする「チーム」を創るのではなく、代表の方が自分のやりたいことに「役に立つ道具」としての人材を随時求める・・・
だからいつまでたっても「チーム」にはならないし(ならない方が都合良い?!)、かかわる人もあまり大切にされない(消耗品?!)・・・
これが、5年間かかわって感じた僕の実感です。(もちろん主観ですけれど)。

繰り返しますが、そういうやり方を「悪い」とは思いません。
ただ、僕には、その「<私たち>感のイメージづくりに手を貸す」ことはもう耐えられませんでしたし、代表の方に異を唱えて団体の健全化を訴えることもここでは求められていないと痛感したとき、離れることを決めました。
なので、ストレスの残渣は残っていますが、内心は概ねスッキリしています。



でも・・・・・・
「エコビレッジ推進プロジェクト」に「正会員」としてかかわっている人たちが、「エコビレッジ」のイメージはおろか、「団体の主目的や活動内容」も、「どういうプロセスでエコビレッジをつくっていくか」ということも全然共有できていない(というか大して話すこともなく、数年に1度くらい話題にしては中途半端なまま放置…の繰り返し)なんて、あり得るでしょうか?
僕は、そういうのは「キライ」です(好みの問題ですねー)。



思い返せば2010年の春に長沼に越してくる以前、僕は「エコビレッジ」という言葉すら知りませんでした。
僕はそもそも、「エコ」なんて言葉を頭に持ってくるのは「カッコ悪い」もしくは「マガイモノ多し」と思っているので(いや、立派なものももちろん沢山ありますけど!)、「エコビレッジ」を初めて耳にした時には「恥ずかしいネーミングだなー」と感じたのを覚えています。だって、「エコ・ビレッジ」ですよ…。まあ、わかりやすいっちゃわかりやすいんですけどね。

僕自身は、教員を辞めた後、2年間の旅、短大での農業の勉強を経て、「百姓になろうかと思ったけど<生産者>よりも自分は<自給者>になりたいんだな」という意思が明確になった時でした。
小銭を稼ぎつつ自給的な暮らしを続け、そのうち培ったノウハウを活かして「学びの場」をつくろう…と考えていた僕にとって、「長沼で自給的な生活をしながらエコビレッジライフ体験塾を手伝わないか?」という代表の方のお誘いは渡りに船でした。
ふりかえれば不本意なことも多々ありましたが、自分を活かせる場に招いていただいたことは、今でもすごく感謝しています。本当にありがたかったと思っています。

今でも「エコビレッジ」という言葉は好きではありませんが、やればやる程、考えれば考える程、そのコンセプトは素敵なものだと思います。
個人(または家族)がそれぞれ自給的に暮らすよりも、(物理的な距離はあったとしても)支え合えるコミュニティを持つことによって、人はずっと「豊か」に人生を送れるはず。
・・・5年間体験塾をやってきて、僕はそう確信しています。

「共有」「つながり」が、僕がイメージするエコビレッジの「核」ですね。
次回は、そのあたりのこと、今後の展開について少し記そうと思います。
(愚痴を書くのは今回限りです!)
posted by 野良人イトウ at 18:55| Comment(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月07日

過程を生きる。

先日、今年も無事にというか、なんとかかんとか誕生日を迎え、また一つ歳をとった。
今更「自分の誕生日」ってことに大して思いはないけれど、自分が生まれた時の若き両親のこととか想像すると、やっぱり少し感慨深い。この日は「親を想う日」、なんだろう。

もう一つ、僕の場合、この日に必ず思うのは連合赤軍のこと。
1972年は「戦後の終わり」とも評される象徴的な出来事の多い年だけれど、特に2月は連赤の「赤間山荘事件」の起こった月として認識されているだろう。
あの事件も、切り口、見る角度によって全然違うものが見えてくる。知れば知るほど面白い。

「理想」に燃えた若者、何となくカッコよさそうだったからという若者、タイプは様々だったようだけど、「革命」「使命」という言葉に惹かれた純粋な青年たちがやがて狂気の集団に陥るさまは、実は他人事じゃあない。
「集団心理」ってやつは本当にやっかいだ。
「正義」って心情も本当にタチが悪い。
右も左もなく、人の感覚・理性なんて集団の中で簡単に歪み暴走する。「我に正義有り」なんて思ったが最後、カンチガイの海に漕ぎ出してしまう危険が大。
今だって、そんなことばっかりだ。

テロリストだってそうだし、「テロと戦う!」なんてイサマシイ顔してる人もそう。
どんなに崇高な目標・目的を抱いたところで、手段・過程がそれに反するならまったく意味がないと僕は思う。
「素晴らしい社会」を夢想した若者たちも、オウムに傾向していった人たちも。彼らには、正義も目標も善意もあっただろう。それが何故歪んでいったか・・・?
たとえば、NPOの不正経理だって根は同じ気がする。「私たち、結局イイコトしてるのだから…」なんて身勝手な自負が横行してしまう。
「人に優しい社会」を訴える団体が人を大事にしていなかったら、それはやっぱりまずい(…と内部にいれば気づけなかったりする)。
そして、(最近じゃネットに溢れてる)自論を固めるために不確かな情報をさも事実のように撒き散らす姿・・・なんと醜くアヤウイことか。

「世に住む生きとし生けるものすべてが、自由に、平和に、平等に、美しく、明るく、楽しく暮らせる、幸福と善意と優しさと愛に満ちた世界」。
・・・これは、『The World Is Mine』って漫画の中で無差別殺戮を繰り返す犯人が人質(ホントは既に殺してる)解放の条件にした「要求」だ。
非常にシュールなシーンで、これを読んだとき僕は身震いしてしまった。
明らかに皮肉としての台詞なのだけれど、この手の言葉は実は誰でもが簡単にお手軽に発することができる。言うだけならタダ。言ったもん勝ち。
(最近じゃあ、「持続可能な…」なんて言われれば、「そりゃそうですね」としか言えないよね)
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言葉は重要だ。
僕らは通常、意思疎通の大半を言葉に依るしかない。
でも、だからこそ、丁寧に扱いたいし、その「限界」も知っておきたい。
言葉は所詮、言葉だ。

そいつが何を喋っているか、書いているか以上に重要なこと。
それは、そいつが「何をしているか」ってこと。
理論や目標はいいとして、「どんな過程を経ているか」、僕はそこを重視したい。
それがダメなら、どんなにエラソーなこと言っててもダメな気がする。

もちろん、自分にも課したい。

今この瞬間の延長上にしか未来はない。
結局は地道に石を積み上げていくしかない。
どこまでいっても「過程がすべて」だ。

・・・なんてことを考えた、誕生日だった。

posted by 野良人イトウ at 19:18| Comment(2) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月03日

高い壁。

本当に悲しい。
アベのやってることがどーだとか、政治的なことはここでは言わない。
殺されてしまった方、ご遺族へのお悔やみの気持ちも僕が述べるまでもない。
ここ数日、僕がこころから悲しくて悔しいのは、彼らがますます世界中から誤解をされていきそうなことだ。
僕が訪れたシリアという国、出会ったシリアの人々は、穏やかで優しく素敵な人たちばかりだったのに。

アレッポのモスク。
祈りの場は荘厳で、いつも静かな時間が流れていた。
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子どもたちは(勝手なイメージで悲しげな表情にも見えたけど)少しシャイで親切だった。
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仕立て屋のじいちゃんに、破れたジーンズを繕ってもらった。
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雑貨屋さんで、僕も必要な道具を買ったりした。
今となってはホウキが気になるな。
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とにかく、基本的には僕らと何ら変わらない、笑ったり泣いたりする当たり前の日々があった。


もちろんシリアだけじゃない。
中東の国々、そしてイスラムの人々は誰もが親切でホスピタリティに溢れていた。

最近はようやく新聞でも「イスラム国」の頭に「過激派」などをつけているけれど、ラジオやたまに目にするテレビじゃ結構そのまま呼んでいる。実に嫌な、誤解を招く呼び方だ。
どこかでイカレた新興宗教団体が「キリスト国」とか「天皇国」とか名づけたら、メディアはそのまま呼ぶだろうか?
アヴァンギャルドなアーティストには「自称」とか必ず付けるくせに。


当分、ただの旅行者があのあたりを旅することなんてできないのだろう。
それでなくても日本人には「危険なところ」と思われている地域。
本当は、「日本人は大好きなんだ!」と言ってくれる人たちだったのだけれど。
(「アメリカにヤラレタもの同士、仲良くしようぜ」って感じの人も多かった)

ああ、パレスチナ自治区を取り囲む「壁」も、またさらに高くなってしまった気がする・・・。
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壁にはいろんなラクガキが願いを込めて描かれていた。
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僕は、あの時も今もそれを見上げることしかできない。
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(自分の心には壁はないつもりだけれどね…)
posted by 野良人イトウ at 07:35| Comment(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月09日

デトックス中。

いろいろデトックス中の1月。
インフルで寝込んだのも今まで所属していたNPO法人から離れるのもその一環だと思っていますが、スマートフォンからパカパカ携帯電話に戻したことでずいぶん気分がスッキリしています。
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2年間使ってみたものの、どうしても自分には必要性を感じず好きになれなかったスマホ。通信料が高くて参っていたのもありますが、何よりあのタッチパネルってやつが苦手でした。
指先で触るだけのフワフワした感覚、それはあの画面の中で扱われる言葉や情報の軽さそのものな感じもして、使う度に魂が削がれるような気分になっていたのです。
言葉の軽さで言えば携帯だってパソコンだって似たようなものかもしれませんが、まだ一定の不便さや扱う時の体感、役割の限定さが残っていて、ホッとさせてくれます。



ちょっと話題は逸れますが、僕は自分の思春期時代にスマホやインターネットがなかったことを心から「ラッキーだったなあ」と感じています。
特にFacebookだとかLINE(←やったことないけど)などのネットを介したコミュニケーションのビミョーなつながり具合、狭〜い価値観・・・。
「誰ともつき合わなくていいや」と思っていた時期に本当に「孤独」でいられたことで、僕はたくさんのものを得た気がします。
あの頃の自分の周りにスマホやネットの不可思議なコミュニティがチラチラしていたら、もっともっと根性がねじ曲がっちゃっただろうなあ。
友人知人とは一切会わずかかわらず、ひたすら本を読み音楽を聴き映画を観、そして見知らぬ土地を一人で旅した時間・・・あの時間があったからこそ自分の中に「軸」ができたし、今こうして人と過ごす時間の貴重さも実感できているのだと思います。



今僕は仕事をする上でもインターネットを大いに利用させてもらっていますが、(言うまでもないとこだけれど)可能性と同時に限界やデメリットを把握してつき合わないとなーと思う次第です。
情報の扱い方、言葉の使い方。
僕らがこれからの暮らし、生き方に求めているものとは、ネットを介すことでどうしたってズレちゃう気がします。
いくら人の動画を見たってね、本当のことは伝わらない。
指先動かして情報を流したり受けとったりすることを繰り返しても、きっとこの世界の本質は何もわからない(わかった気分になっちゃうところがキモチ悪い…)。

自分の体を通して得られる「情報」を、これからも蓄積していきたいな。


posted by 野良人イトウ at 19:53| Comment(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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