2018年09月04日

土とともに。


9月1日(土)に行った『アースカラープロジェクト』は、「身近な土を採取して染料をつくって布を染める」というなかなかディープな講座でした。
講師として来ていただいたのは、大阪「古色の美」の職人である小渕さん。
かなり本格的な「ベンガラ染め講座」です。

企画の立ち上げもいつもと違いました。
大阪にベンガラ染めを学びに通っている友人・新さんが「北海道でも是非!」と持ちかけて下さり、僕は「学びの場」を提供させてもらうことになったのです。
こういう「持ち込み企画」のようなものも、とてもありがたいお話です。
僕がここで行っていることの趣旨にもピッタリ合う、とても素敵な企画でした。
(大阪から来ていただくこともあって、参加費も決して安くはないのですが、あっという間に定員の15名を満たしてしまい、数名の方がキャンセル待ちの状態でした。ベンガラ染めに関心を持つ方の多さに驚きました。)


事前の準備として一番重要なのは、もちろん土の採取です。
せっかくだからバリエーションを、と思い、質感や色合いの異なる土を3種類、選びました。
染料をつくるには乾燥していた方が良いとのことなので、数日前に採取し、乾かしておきました。
黄色味の強い土、畑の黒土、そして山の中で1m程掘った深部にあった青い土。
(青土は掘り出してしばらくすると黒ずんでしまいましたが)
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そして当日を迎えました。
今年は雨が多く天気予報をにらみっぱなしの数日間でしたが、午前中少し小雨がパラついたくらいで、その後は気持ちの良い夏の終わりの青空が広がりました。
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初めは、山の小屋にて座学です。
小渕さんがスライドを写しながら、ご自身の取り組みや泥染めの歴史などをお話してくださいました。
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ちょっと演示も。
焼くことで鉄分を酸化させ色合いを変化させる技術です。
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1時間弱の座学の後は、屋外で染料づくりです。
用意しておいた3種の土は、乾くと色が少し変わっていました。
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乳鉢で土を砕き、細かな粒子にしていきます。
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呉汁を加えるなどして、染料をつくっていきます。
ただの土が布に染まる変化や色味のつくられ方など、「科学の面白さ」も感じられたのではないかと思います。
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染料が出来たところでお昼となりました。
今回、希望される方には、近所のカフェ・MEGIさんのお弁当を注文させていただきました。
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自分の畑や当別産の野菜をふんだんに使い、丁寧につくられたお弁当。
(とても好評でした!MEGIさんありがとうございます)
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ランチタイムを終え、午後はいよいよ「染め」を行います。
まず、小渕さんが様々な技法を伝授してくれました。
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急きょ物置に転がっていた塩ビ管も使って…(さてこれがどうなるやら…)。
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染め物は開いてみる時まで出来あがりは未知です。
小渕さんも仰っていましたが、「人間の考えの及ばない領域」のあるところもまた、染めの魅力ではないかと思います。
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塩ビ管から布を外すと、こんな模様が現れました。
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さあ、参加者の方々も挑戦です。
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先ほどつくった染料以外の数種類の色も使いながら、やってみたい技法で作品づくりを行いました。
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「わあ、いいね!」
一つひとつ、開くたびに歓声が上がります。
次々と素敵な作品が出来上がりました。
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朝から始めた講座も(予定時間をだいぶオーバーして)あっという間に夕方となりました。
「え?もうそんな時間!?」という声が飛び交う程、盛り上がって作品づくりを行う濃密な時間でした。

最後は、全員で記念写真です。
講師の小渕さん、企画して下さった新さん、そして道内各地から集まって下さった参加者の皆さんありがとうございました。
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(実は、鎌倉で素敵な服をつくっている「アトリエゑん」の岩本さんもゲストでいらしていました。岩本さんも、染めを学びながらご自身の作品をつくっておられます。今回は、作品の展示も行ってくださいました)


僕自身も「土」に対してのコダワリや関心をそれなりに強く持っていますが、今回あらためて「土ってスゴイ!」と感じさせられました。
イキモノを育む存在であるとともに、「泥」は、おそらく人類最古の絵具であり染料でしょう。
土で家をつくる人たちだって、今でも世界各地にいます(僕もアフリカでしばらく家づくりを行いました)。
そんな、自分の立っている足の下の素晴らしい存在に目を向けていたい、と感じた1日でした。

本当に大切なものは足元に。
自分の足元から、世界はつくられていくはずです。
大地を感じながら、土とつながりながら、地を這うように生きたいな、と思います。


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★暮らしを学ぶ・暮らしで遊ぶエコビレッジライフ体験塾では、各種講座・イベント行っています。

★イベント情報
 
『ウンコは地球の宝物〜糞土師の糞土教室2018』<参加受付中>
今年も、糞土師・伊沢正名さんを講師に招き「本物のエコロジーとはどういうことなのか」、「生き物として人の生活はどうあるべきか」などについて、大いに語っていただきます。もちろんフィールドワークでは、糞土師の野ぐそ術もお伝えします。
  〇日時 10月7日(土)13:30〜17:00
  〇場所 石狩郡当別町金沢147-1
  〇参加費 3000円
  〇講師 伊沢正名さん

『明日のためのタネ採り講座』<参加受付中>
当たり前にあるけれど、タネっていったい何?・・・というところからスタートし、タネという存在についてちょっと考えてみましょう。
タネに親しみ、「自家採種の意義」を考えながら、実際に10種類ほどのタネ採り実習を行う講座です。
〇 日時 10月14日(日)10:00〜12:00
〇 場所 当別町金沢147‐1
〇 内容 ・自家採種の目的、意義(座学)
     ・タネとり実習
〇参加費 1500円
〇定員 12名

*すべてのお問い合わせ、お申込みは、HPのお問い合わせページ、もしくはEmail、Facebookのメッセージにて承っています。
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2018年07月08日

仕事と手と知恵。


時々お手伝い(アルバイト)に行っている農家さんから「乾燥室の修繕」を頼まれました。
「天井が崩れて落ちてきちゃって…」とのことでした。
屋外の納屋を改造してつくられた乾燥室は、天井も石膏ボードで貼られており、それが何か所か崩れていたのです。
ネズミの巣になってグラスウールが団子と化して一緒に落ちてきて、なかなかの状態でした(雨漏りも多少あり?)。

まあそれは仕方ないのですけど、問題はその施工です。
受けもロクにないし、ビスの打ち方もイイカゲン。
僕から見ても、「う〜ん、これは崩れるの、時間の問題でしょう」というシゴトでした。
「これは誰か素人の方にやってもらったんだな…」と思ったら・・・
なんと・・・!何10万も払って工務店にやってもらったものだということでした。
大工さんが報酬を受け取ってやった仕事として見れば、あまりにも酷い代物です。

その農家さん(年配の女性)はおっしゃいました。
「だって私はわからないから」
そうですよねー。なかなかわからないと思います。
信用するしかないですよね。
だからこそ・・・
請け負う側は信用に見合う対応をしなければならないですよね。
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でも一方で思うのは、もう少し「素人なりにできること、わかること」があってもいいのかも。ということです。
「専門のシゴト」が多岐に渡るようになり、いろいろなことを分業してお金で済ませるようになり、僕らは暮らしにかかわることのほとんどを人にやってもらうようになりました。
住まいにかんすることは、その最たるものの一つかもしれません。

「お金が回る」ことが現代社会においては最も重要です(とされています)から、すべてをお金で解決していけばいいのかもしれません。
もちろんそれも一つの考えです(ていうか主流か!)。
が、「人間としての自立」を考えた時、もう少し「自分の手・知恵」を働かせてあげてもいいんじゃないかな、と僕は思うのです。

僕程度の素人では、(例えば大工仕事で)できることは限られます。
でも、考えながらつくる喜びは知っています。
自分でやれることの限界もなんとなくわかるので、どこから先をプロに頼めばいいか、自分で判断できます。
そして何より、(できないなりに)プロの仕事のすごさがわかります。
・・・「プロらしくない仕事」も時には見えてしまったりもします(今回の乾燥室のように)。

昔のように、「何もかも自分たちで」というのはあまり現実的ではありません。
でも、暮らしを取り囲むいろいろな分野において、少しずつでもできることやわかることを増やしていく、というのは、「人間である自分の手と知恵」を満足させていくことでもある、と僕は感じています。
僕らの身体は、きっと働きたがっています。
指先と脳みそだけで現実を泳いでいくようにはできていないんじゃなかな。

そんなことを考えながら、今は『小屋づくり講座』の準備をしています。

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★暮らしを学ぶ・暮らしで遊ぶエコビレッジライフ体験塾では、各種講座・イベント行っています。

★イベント情報

『小さなマイハウスをつくろう〜小屋づくり基本講座2018』<募集中>
7回目となる小屋講座。小屋を建てながら大工仕事の技術を学んでいただくのははもちろん、「小さく住まう」ことも考えていきたいと思います。今年の小屋は、軽トラに乗せて運べる「旅する小屋」です。
  〇日時 @7月14日(土)、A15日(日)、B21日(土)、C22日(日)
      *各日9:00〜18:00頃
      *開始・終了時間は多少変更があります。
  〇場所 @A石狩郡当別町金沢147-1
      BC樺戸郡新十津川町字総進69-11
  〇参加費 20000円/4日間、17000円/3日間、13000円/2日間、7000円/1日のみ
       *参加費には、食費(昼食と午後の軽食)を含みます。
       *リピート受講の方は割引いたします(半額程度)。 

*すべてのお問い合わせ、お申込みは、HPのお問い合わせページ、もしくはEmail、Facebookのメッセージにて承っています。
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2018年02月01日

僕らの存在をつくるもの。

「見る」こと、「聞く」こと。

僕等は通常、その2つの行為でほとんどの「情報」を得ます。
見聞きした情報を脳で整理し、言葉に置き換えて膨らませたり決断したりした後、自分の行動の指針にしていきます。

次々と入ってくる「目と耳からの情報」。
それによって僕らは、自己の存在を確認し、アイデンティティを維持している。
・・・そんなふうに僕は考えています。


映画を観てきました。
『もうろうをいきる』
視覚と聴覚、その両方を失った人たち(「もうろう」と呼ばれます)を紹介するドキュメンタリー映画です。
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まず、映画本編にも登場していた「もうろうの大学教授」福島智さんの詩の一部を記します。

    [指先の宇宙]

   ぼくが光と音を失ったとき、
   そこには言葉がなかった。
   そして世界がなかった。

   ぼくは闇と静寂の中でただ一人、
   言葉をなくして座っていた。



まさにそうなのだろうな、と僕にも想像できます。
目と耳からの情報を失うということは、「世界がなくなる」に近い状態になるのだろうと思うのです。
「世界がなくなる」は同時に、「自己を喪失する」にも近いような気すらします。
光と音から遮断された世界。
笑顔も、素晴らしい景色も、文字も絵もなく、音楽も笑い声も楽しい会話や議論もない世界。

そんな世界で生きる<もうろう>の人々の存在、在り方は、「(それでも)何故人は生きるのか」という大きな問いへの答えを示してくれるような気がするのでした。



「答え」の一つは、先ほどの福島さんの詩の続きにありました。

   ぼくの指にきみの指がふれたとき、
   そこに言葉が生まれた。

   言葉は光をはなちメロディを取り戻した。
   ぼくが指先を通してきみとコミュニケートするとき、
   そこに新たな宇宙が生まれ、
   ぼくは再び世界を発見した。



<もうろう>の人たちにも言葉はあります。
指先で会話する「触手話」という方法。
相手の指に触れ、その動きで情報や想いを伝え合うのです。
もちろん、指以外にも相手の体に触れ、ハグしたりすることでコミュニケーションをとることが出来ます。

相手の指に触れ、「かかわり」が生まれた時、福島さんは「再び世界を発見した」と言っています。
世界を取り戻したということは、きっと「自己を取り戻した」「自分の存在が再現した」ということです。

ここに、「人がなぜ生きるのか」の答えがあるように感じます。
「コミュニケーション」「誰か(何か)とのかかわり」によって、人は人として自己を認識するのでしょう。
逆に言えば、「自分だけ」では、決して人は自己を保てないのだと思います(その対象は人間に限らないとは思いますが)。


20歳頃(だったかな)、何かの本で「自己のアイデンティティは自分の内にあるのではなく、無数の他者の視線によって構成される」という言葉を目にしました(正確じゃないけどそんな感じ。誰の言葉だったかは忘れてます)。

でも実は、その当時の僕にはあまり響いてこず、「けっ、何言ってやがんだ。俺は俺だ。人の目なんか気にしないし、左右されない。人と自分を比べて生きるなんて御免だ。俺は俺として俺らしく生きてりゃいいだろう。それが俺のアイデンティティだ!」くらいに思っていたものです(恥ずかしいけど、若かったからね)。

でも、今ならすごくよくわかります。
そんなに鼻息荒くするほど、「自分」なんて大した存在じゃないですし。

どんなに頑張ったって、自分一人では存在し得ないということを僕は「農ある暮らし」の中で実感してきたように思います。
それは衣食住を自分で生み出せるかどうか、というような話ではなく、日々食べているモノがすべてイキモノであり、「食べる」ということ自体が濃密なコミュニケーションなのだということ、そして僕の身体に住む無数のイキモノがいなければ僕自身では消化することもできない、ということ。
気づかないうちに、多くのイキモノに守られながら、そして彼らに何かを提供しながら「僕ら」は生きています。

生態系の中で「個」は常に無数のかかわりによって存在しているのだという、当たり前のことを僕は暮らしの中で少しずつ実感し、「誰しも自分のみでは生きられないのだ」という現実が僕の自我を随分落ち着かせてくれたのでした。


さらに、勤め人をしていた時にかかわっていたハンディキャップを持った子どもたち、旅の途中で出会った人々、体験塾を通してつながるようになった仲間たち等々、とのかかわりによって今の自分が出来ていったのだとも実感します。
良いことばかりじゃなく、嫌なこと、不快なかかわりも含めて、それら全部が、日々自分を再構築してくれているのだと思う時、「我」というものは、他者とのかかわりによってしか成立しないのだとつくづく感じるのでした。


人間は「必要に応じて関係性(コミュニケーション)を持つ」のじゃなく、「コミュニケーションを取ることで人間であり続ける」のかもしれません。
実は、それは生態系の中のイキモノたちと同じです。
生きるということは、多様なコミュニケーションを持つこととほぼ同義。
生態系の環をつくり上げるために個が存在しているとも言えます。

かかわりあい、何らかの手段で意志や想いを伝え合う(もしくは食べたり食べられたり…)。
見えずとも自分とかかわりあう存在を感じる。

コミュニケーションによって僕らの存在は具現化し、他者に伝わった「何か」がまた別な何かにつながっていく。
連綿と続く「つながり」「コミュニケーション」。

きっと、それがこの世界の有り様です。

・・・なんてことを、映画を見た後、味噌を仕込んだりしながら僕は考えていたのでした。
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(味噌樽の中の「彼ら」との関係性も、僕をカタチづくる大事な要素です)


最後に、福島さんの詩の続きを。

   コミュニケーションはぼくの命。
   ぼくの命はいつも言葉とともにある。
   指先の宇宙で紡ぎ出された言葉とともに。




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★暮らしを学ぶ・暮らしで遊ぶエコビレッジライフ体験塾では、各種講座・イベント行っています。
3月までは随時、味噌や醤油仕込み、ひょうたんランプ制作などの出前講座も承っています。

★イベント情報

『冬山散歩〜春を探して』
  〇日時 2018年2月3日(土)8:45〜15:00
  〇場所 当別町金沢147−1
  〇内容 ・裏山での冬芽の観察
      ・中小屋温泉までのスノーハイク(札沼線にて帰還)
  〇参加費 1500円
  〇定員 10名程度

『ひとつぶのタネのチカラ〜タネの交換会と学習会』
  〇日時 2018年2月18日(日)9:45〜11:45
  〇場所 札幌エルプラザ 環境研修室1,2
  〇内容 ・『OPEN SESAME〜The Story Of Seeds』ミニ上映会
      ・自家採種したタネ交換会
  〇参加費 800円
  〇定員 30名

*お問い合わせ、お申込みは、HPのお問い合わせページにて承っています。
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2018年01月13日

僕の「講座」のつくり方。

この時期は、エコビレッジライフ体験塾の講座も少しペースを落として、新年度の準備をしています。
体験塾は一応僕の「本業」。
仕事としてやっている以上、目的の一つは「現金収入を得るため」なのだけれど、もちろんそれだけのためにやっているのではありません。

だから、常に「自分がやっている意味は何だろう?」「このやり方でいいのかな?」と自問自答ながらです。
最近はアチコチで様々な講座やワークショップがあるけれど、「何故、<自分が>それをやるのだろう?」とあらためて考えたりもします。

しばしば僕が自分で(自分の暮らしのために)やっていることを「それもワークショップにしたら?」「講座にして(教えて)ほしい」というお声をいただきます。
でも、何でもかんでもそんな風に講座化してしまうのは、僕は違うと考えています。
一応、僕なりに講座化する「基準」や「段取り」があるのです。

新年が始まったし、自分がこの塾を運営するにあたって(というか講座を企画するにあたって)のコダワリを少し整理してみようと思います。



毎回必ず考え込んでしまうのは、以下の3点です。
・自分に伝える側としての資格(知識・技術・経験)があるか
・企画に(参加費を受け取る)講座としての価値があるか
・受け取る報酬が価値に見合ったものであるか


僕が企画する講座には、自らが講師として立つものと、長けた方に講師をお願いするものがあります。
自分で行うものは、当然自分が時間をかけて学び経験してきた分野です。

それは「栽培関係」や「食品加工系」「生態系にかんすること」が主ですが、例えば『醤油造り』などは、自分で仕込み始めて4〜5年経験してから講座として企画しました。
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ただ、当時は、4〜5年の経験など取るに足らないという気持ちもあり、「自分がお金をいただいて講座を開いて良いのだろうか?」と迷いながらの「醤油講座」でした。
それでも行ったのは、その頃は他に醤油について学ぶ機会がほとんどなかった(最近は札幌でも時々あるようですね)のと、情報がほとんどない中で試行錯誤や失敗を繰り返してきた経験を伝えなくてはもったいない、と思ったからです(最初は友人を集めて遊びでやりました)。
MY醤油仕込みを始めて現在は7〜8年。
まだまだ経験は不十分だと感じていますが、日々学び続けているので、毎年少しずつ内容の濃いものに出来ている自負はありますし、自分ならではの「視点」で伝えているつもりですので、今後も続けていきたいと思っています。
(今年も3月後半に「醤油講座」行う予定です!)


『豆腐造り』は、教員をしていた時からやっていましたし、お豆腐屋さんにも学びながら幾度となく自分では作ってきたので、経験はそれなりに長くあります。
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が、実は未だに「豆腐造り講座」として講座を提供してはいません(依頼を受けて行うことはありますし、昨年度から「豆部」の中の一枠としては行っています)。
豆腐造りは技術性の高いものです。
自分としては、「もっと技術を高めないとダメだよな」と感じるので、豆腐造り単体で講座を企画することはまだしていません。
だから、今年も「豆部」の連続講座の一つで体験していただくくらいがちょうど良いと考えています。
(それでも、講座として楽しんでいただく段取りは整ってきたと思います)


『味噌』や『醤油』をやっているので、「『みりんづくり』もやって欲しい」と言われることがあります。
でも、僕は「みりん」はあまり気が乗りません。
みりんも数年前からつくっていますが、作業は実に単純なので参加費をいただいて教える程ではありませんし、みりんが出来あがる過程は味噌・醤油と違ってドラマ性に欠けます。
麹の話をメインにするなら可能ですが、「自家製みりんをつくりたい」だけなら、「レシピ探してつくってごらん」という気がします。
「味噌だって簡単!」ではありますが、味噌にかんしては「経験者にも面白いと思ってもらえるような講座が可能」と思うので、講座化させていただいています(それでも味噌単発じゃ物足りないので、『タネまきから始める味噌造り』という連続講座で企画しています)。
取り組む内容が「講座にして面白いかどうか」も僕にとっては重要な観点です。


『ひょうたんランプ制作』を講座にしているのは、ひょうたんの栽培や事前の加工が結構大変なのでそれを僕が担いつつ、だけどとっても楽しいランプ制作は体験して欲しい!と思うからです。
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もう少し言えば、当初は、ひょうたんでランプシェードを制作して販売すること考えていました。
でも、そうすると僕の作品としての制作費用をいただかなきゃならないので、どうしても1万円以上になってしまいます。
本来、何でも自分でつくるのが楽しいし、その楽しさを伝えるのが僕の活動なのだから、「自分でつくってもらう方がいいじゃん!」と思ったわけです。
それなら材料費込みで4〜5千円で提供することができます。
なので、「つくり方を教える」というより、「つくる場と素材を提供する」というのが、この企画の趣旨なのです。
(これは今年は、3月か4月に行う予定です!)


一方で、しばしば要望される『ほうき作り』をなかなか企画できないのは、やっぱり自分の技術が人を指導するほどに達していないと感じるからです。
自分でそれなりの数を作ってはいますが、「まだまだ未熟…」なので、講座を行わずにいます。
友人で僕よりもずっと上手な作り手がいるのも、理由の一つです。
その方には3年前に一度講師になっていただきました。
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本来はまたお願いしたいのですが、謙虚な方なのでなかなか実現していません。
その方を差し置いて自分が教えるなんて・・・という思いもあって、最近は企画していないのでした。
もう少し自分の腕が上がったら、自分でも「伝える側」として立ちたいと思っています。


この、「僕より長けた方がいるならその方にお願いするべき」という発想も、僕にとっては重要な観点です。
今年で7年目になる『小屋づくり講座』は建築工房らくだの千葉さんに講師をお願いしていますが、これは当然、千葉さんあっての講座です。
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毎回一緒に講座をやってきていますから、講座の中で千葉さんが話すことや伝えることは、概ね僕も蓄えています。
自分でもそれなりにつくるようになりましたし、一緒に作業しながら経験の浅い方に教えることはできるかと思います。
でも、「教える」って、そんな甘いものじゃない!とも思うのです。

千葉さんが講座の中で「10のこと」を教えるとして、でもその背景には100も1000もの経験や知識があります。
その裏付けがあっての「講座で伝える10」なのです。
だから、自分で講師を務める場合はいつも、「講座で話すことの10倍のネタ」を持つようにしています(なのでつい話し過ぎて時間を越えてしまうのでした…それは反省)。

同じように『チーズ講座』『羊毛講座』なども、自分では積極的には行いません。
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それなりに経験しているので、そこそこつくれるようにはなっていますが、ハイジ牧場の金澤さんの豊富な知識・経験に裏付けされたお話には到底かないませんから、当然講師をお願いしています。


『織り』『染め』といったジャンルは、僕も10年くらい前から多少遊びとしてやっています。
相方のM氏は、僕以上に経験や知識があります。
なので「講座として企画してもいいかな?」と思うこともありますが、やっぱり「まだです!」という結論に達します。
まだ、というか、知人でプロもしくはプロ並みにやっている方がたくさんいるので、一般公募する企画とするなら、僕等じゃなくそういう方々にお願いするのが相応しいだろう、と思うのです。
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友人との遊びや「おまかせプログラムの1コマ」として体験してもらうことはやっています。

もちろん講師を依頼すればそれなりの謝礼をお支払いするし、参加費もあまり高くしたくないので、企画側にはそれ程収入にはなりません。
自分で講師をする方が収入になるのは確かです。
でも、質の高い講座にしたいと考えるなら、より相応しい方にお願いするべきだと思っています。

けれど、そういう場合であっても「企画し、参加者を集めるだけが役割」とは思っていません。
講師でなくとも、僕は「案内役」「企画の責任者」です。
講座で行う内容を熟知し、できるなら講師と近いくらいの情報を持っていたいと考えています。
それによって、講座がより深まるような投げかけも可能になります。
講師の方の話を「翻訳」することもできます。
「<講師の方の経験や知識>を<教育プログラム>に変換する」のが、僕の役割・仕事だと考えています。
講師の方の話が通じにくいことがあるとしたら、それは僕の責任なのです。



・・・というようなことを考えながら、僕なりに質の高い講座を企画できるよう努力しているつもりです。

蛇足かもしれませんが、最近しばしば巷で見受けられる「講座(ワークショップ)という名で、参加者の労働力をあてにしている(利用する)」やり方は絶対良くない、と思っています。
ただ「一緒に体験しませんか?」なら良いのですが、講座として参加費をもらうなら、せめてそれに見合う準備(教材化)をコチラが出来なきゃダメだと思っています。
教材化するのは結構大変なことなので、「そのくらいなら講座にはしない」ことが僕もよくあります。

参加費をもらうかどうか?
もらうならいくらなのか?


という点は常にとても迷うところでですが、基準を挙げるなら、講座として明確に「プログラム化が出来る」ものなら有料、ただ一緒に作業するなら無料です。
有料の「講座」にするなら、自分も含め講師料がどの程度必要か(本業かセミプロか、副業か、どのくらいの事前準備があるか)や材料費を考慮し、内容・情報量に見合った金額を決めます。
自分の収入は大事ですが、参加する側として「参加費分以上の価値がある!」と感じてもらえる設定にしたいと思っています。



・・・などなど、こだわっていけば、時間ばかり要して「かけた時間に見合う収入にならない…」のが実情ではあります。
本当はもう少し各種助成金や補助金を受けたらいいのかもしれませんが、安易に外部資金を受けることに抵抗があって(ズブズブな例を知っているだけに…)、今のところは参加費収入だけでやっています。

だけれど、「暮らし方や世界観が変わっていけば、少しずつ社会や未来はマシになるだろう!」「ニンゲンだってその方がシアワセになるだろう!」と僕は信じているので、得ているものはお金という数値だけではないのです。
そのあたり、今後も迷うとは思いますが、ブレないように、できるだけ誠実に活動を続けていきたいと思っています。

「明日、死ぬと思って生きなさい。
永遠に生きると思って学びなさい。
幸福とは、あなたが考えることと、あなたが言うことと、あなたが行うことの調和がとれている状態である。」


・・・とガンジーさんも言っていますしね。

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★暮らしを学ぶ・暮らしで遊ぶエコビレッジライフ体験塾では、各種講座・イベント行っています。
随時、味噌や醤油仕込み、ひょうたんランプ制作などの出前講座も承っています。

『ひとつぶのタネのチカラ〜タネの交換会と学習会』
  〇日時 2018年2月18日(日)9:45〜11:45
  〇場所 札幌エルプラザ 環境研修室1,2
  〇参加費 800円程度(調整中)
   *タネ交換会の前に行う学習会の内容は調整中です

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2018年01月09日

好きなこと、嫌いなこと。

年末年始はやや穏やかでしたが、数日前からまたドン!と雪が降りまして・・・

玄関から出るのも大変。
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屋根と窓がつながっちゃいそう。
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家の中からは、こんな景色です。
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屋根の下はどうしても雪が溜まるので、すでに何度か排雪作業をしています。
年末にも一度しっかりやったはずなのですが、10日と経たないうちにまたこんな状態なのでした・・・。

仕方がないので、数時間かけて除雪&家周りの排雪作業。
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とりあえず今回は、こんな程度でいいことにしましょう。
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なんだかこの冬は(も?)雪の愚痴ばかり言ってる気がしますが、はっきり言って僕は、「除雪」という作業ほど気の乗らないシゴトはありません。
まあ片付いていくこと自体は嬉しいし、やり始めたらそれなりに面白みもあるのですが、どんなにキレイに仕上げても数日後、いやもしかしたら明日、サイアクの場合今日の夜にはまた元の木阿弥になっちゃうかもしれないことを思うと、どうにもムナシサが伴ってしまうのです。
毎回必死にマイナスを0に近づけるだけのシゴト・・・。
どんなにやっても成果の残らないシゴト・・・。
ああ、色即是空・・・(違うか)。

しかも、この冬のように週の半分近くを出稼ぎに行ってると、家にいる日の作業時間は実に貴重です。
アレもやりたい、コレも片づけてしまいたい・・・と考えているのに、半日が除雪で費やされるのは非常に残念無念なのでした。

ま、仕方のないことなんですけどね・・・。



そう・・・、仕方がないことなんです!!
愚痴は言いますが、でも、だからってやらないわけにはいかない。
ムナシクたって、ツマラナクたって、雪に埋もれていっては暮らせません。
諦めて、「エイヤッ!」とやる以外はないのですね。

そもそも、「暮らす」とか「生きる」って、そんなことばかりのような気がします。
食べ物をつくる(作物や家畜を育てる)ことは基本的に喜びの多いシゴトだけれど、本気でやればその大半はシンドイ作業です。
草取りも、日々のお世話も、モノによっては収穫も。
家畜を飼えば、喰う為には、情の移った相手を殺すという最も嫌な作業がありますし。



この頃、「好きなことだけやればいい」という旨の言葉をしばしば見かけます。
「嫌なことはやらなくていい」といういい方の場合もあります。

そういう言葉を聞くと、僕は「そうかなあ?」と思ってしまいます。
日々ストレスを抱えて思い悩んでいる人には光明をもたらす言葉かもしれないけれど、「本質的にそれは<ない>よなあ」と感じます。

だって、「好きなこと」は、それ「だけ」では存在し得ないから。



例えば僕を見て、「やりたいことをやってていいですね」と言ってくれる人がいます。
確かに僕は今、結構自由にやりたいことをやって生きています。

でも、「やりたいことだけ」で生きているわけではなく、実は、やっていることの大半は「やらずに済むならやりたくないこと」です。
シゴトや作業なんて、そんなものだと思います。

ヒョウタンでランプをつくるのは楽しいけれど、つくれる状態に準備していく作業は面倒でシンドイことばかり。
エコビレッジライフ体験塾でいろいろな方に喜んでもらうのは嬉しいし、講座の準備をするのは好きな時間だけれど、人に声をかけて募集したり営業したりするのは僕にとってストレスの大きい作業です。

でも・・・、やります。
やらなきゃ進めないから。
そこにちゃんと価値や意味があることを知っているから。
もちろん必要以上に我慢することはないけれど、「必要」があって「納得」できるなら、まあ多少のストレスや無理があったってやるわけです。

「好きなこと」と「嫌いなこと」は、いつだって混在してると思います。
上記の表現に対して「違うんじゃない?」と感じるのは、たぶん「モノゴトをその2つの感情によって振り分けられる」という誤解を与えるからなのですね。

「嫌なことはしない」という観点で考えるなら、それは具体的なシゴトや行動というより、「人をだましたくない」とか「人をできるだけ傷つけたくない」などの「心の指針」「自己哲学」として持っていればいいのではないかと、僕は思います。



そして、イキモノは、生きていく上である程度の苦やストレスに耐えられるように出来ています。
適度なストレスがあるから、耐性も身につきます。
僕ら人間(現代社会に生きる日本人)だって、本来は野生のイキモノと同じ。
ストレスのない世界で生きるようには出来ていません。
むしろ、寒さ暑さや空腹、疲労など、いかにストレスに耐えしのいで生き延びるか、というのがベースになっています。
(我慢し続けて心や体が病んでしまう人もいるけれど、それは、「ある程度」というセンサーが不調になってしまったからでしょう。センサーも体の一部だから、そもそもあまりに弱いとすぐにそれ自体が不調になってしまうのだと思います)

人間は、科学や社会システムを発展させることで、「嫌なことは避ける」術を増やしてきました。
快適な環境を整え、食糧を生み出し、自分がやりたくないことをひたすら人に押し付ける社会構造もつくりました。
でも、その一方で、身も心も「病」と背中合わせで生きるようになっているようにも思います。
常に精神の奥底に「不安」を抱えているように思います。

もしも(ありえないけれど)全くストレスのない、「好きなこと」だけの世界にいられるとしたら・・・
きっと、「好きなこと」にも何も感じなくなって、人格も崩壊していくんじゃないだろうか?

夜と昼が繰り返し、人間にとって善玉菌がいて悪玉菌もいる。
楽しいことがあって、穏やかな時がある。
不快なことや悲しいことや苦しいことが波のように押し寄せて、でも、その中で輝く喜びの瞬間も見つけ出す。

世界との対峙の仕方って、それでいいんじゃないかな。



話は戻って、除雪作業。
僕はこのシゴトがほんとに嫌いなのですが、だからと言ってやらないわけにはいきません(お金を払ってやってもらうはずもなし)。
でも、この場所で暮らすって、それを受け入れるしかないのです。
「ホント不毛だよな!」と思いながら、「ナニクソ畜生、負けてたまるか」とイースタンユースの『ナニクソ節』を歌いながら、体を動かすのです。

で、家に入って暖かいお茶を飲みます。
「いやあ、ほんと不毛だよねー」と同居人に愚痴り、翌朝また積もっていたら、「勘弁してくれー」と笑うのです(笑うしかない)。
そんなこんなしながら、春を待ち焦がれます。

この地での暮らし、僕は嫌いじゃないのですから。
P1080149.JPG
(また屋根の雪、落ちてきた・・・苦笑)
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★暮らしを学ぶ・暮らしで遊ぶエコビレッジライフ体験塾では、各種講座・イベント行っています。
随時、味噌や醤油仕込み、ひょうたんランプ制作などの出前講座も承っています。

『ひとつぶのタネのチカラ〜タネの交換会と学習会』
  〇日時 2018年2月18日(日)9:45〜11:45
  〇場所 札幌エルプラザ 環境研修室1,2
  〇参加費 800円程度(調整中)
   *タネ交換会の前に行う学習会の内容は調整中です


posted by 野良人イトウ at 06:05| Comment(0) | 思想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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