2016年12月28日

家族のかたち。

先日、以前から気になっていた本を読みました。
『家族という病』(下重暁子 著)
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「家族」という、誰もが疑うことすら許されないような存在に対し、「病」なんて刺激的な言葉を付加したタイトル。それなりに奥深い考察があるのではないかと期待したのですが・・・全くそんな内容ではなく肩透かしを食らってしまいました。
資料やデータをもとに生物学的視点から、もしくは社会的、民俗学的な観点から分析して、「家族という生息(生活)集団」が必要とされてきた理由や現代社会における矛盾、そこに陶酔する危うさや権力との関係性などを客観的に考察した論述・・・などではなく、ほぼ全編にわたって、著者の家族に対する感情のねじれ(特に父親との確執)に端を発する「家族なんて信じるに値しない」という愚痴?の羅列が記されていたのでした。

まあ、「家族のことしか話題のない人はつまらない」とか「孤独であることの重要性」「家族に血のつながりは関係ない」など、ちょこちょこ共感できる部分もあったけれど、そんなのは嗜好の問題ですから、エラソーに言う程のことではないよなー、と感じてしまいました。

それよりも、僕が期待していた(自分の中で整理しておきたかった)のは、「家族はなぜ排他的になるのか」「家族という名の暴力」というあたりです。けれど、せっかく本の中で項立てされているにもかかわらず、それを客観的に考察、分析するでもなく、旅行中の家族連れの傲慢さに対して「・・・家族という名の暴力に腹が立って仕方がなかったのである」という感情むき出しの締めくくり。
これってただの日記じゃないの?と呆れてしまったのでした。


それよりも面白かったのは、『コンビニ人間』(村田沙耶香 著)
今年結構話題になっていた本です。
内容は割愛するけれど、そこで描かれている「<普通>や<常識>の暴力性」を僕はとてもリアルに感じました。
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就職や恋愛、結婚などにはまるで関心を持てず、コンビニ店員として「<普通の人間>という架空の生き物を演じる」ことに安堵を覚える主人公の女性は確かに変わっている(おそらく何らかの発達障害を持っている?)のだけれど、読んでいて際立つのはやはり、他のアルバイト店員や同級生といったいわゆる普通の人々の傲慢さです。
「それぞれの旦那と子供を連れてバーベキューやろう」「結婚くらいした方がいいよ」など、おそらくは善意で発している言葉の、なんと暴力的なことでしょう。

もちろん小説だから、家族観を考察するようなものではないのですが、主人公が「一緒に暮らす男性がいる」と伝えた時の「こちら側へようこそ」と言わんばかりの友人たちの喜びようも含め、人がいかに<家族という常識>のもとで思考や受容性を狭め、善意で他者をジャッジしようとするかをあらためて感じさせられました(その感覚は、<普通>に疑いを持たない方にはわかり得ないものかもしれませんが…)。



常識的なカタチにハマっていない人、背景にわかりやすい家族像を持たない人に対する風当たりは、思いの外、強いようです。
家族という「枠」への信頼度が高い人ほど、半ば暴力的に家族崇拝を押し付けようとするようにも思います。
「家族」は世間の安心を担保するものなのかもしれません。



先日、12月24日夜にラジオを聴いていたら、「クリスマスイブに一人で過ごしてるあなた!何故一人なのか教えてください!クリぼっち(クリスマスに一人のことでしょ)を励まします!」みたいな特集をしていました。
僕はその夜一人でいたのだけれど、別になんてこともないし本当に余計なお世話なのでただただ呆れていましたが、こういう「勝手に人を不幸に見立てる」のも、<常識>の得意技。
AMラジオなんてまさに家族主義で成り立っているような番組ばかりだから聞かなければいいのだけれど、そういう思考が<当てはまらない人>に対しての暴力になりかねないことは、もう少し知っておく必要があるんじゃないだろうか、とも思うのでした。・・・いろんな生き方があるんだからさ。



そして、その「家族という枠組」が、国家権力にとって非常に利用しやすい便利なものということも気になります。
日本会議を筆頭として、保守系の人たちが憲法9条以上に24条の改正を望むのは、そこへの美意識もあるのだろうけど、管理しやすいという理由も大きいのでしょう。
ちなみに自民党の改正草案24条では、「家族は、社会の自然かつ基本的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」となっています。
一見、「ふーん、当たり前のことじゃん」と思うかもしれませんが、こんなことは憲法に明記されるようなことではないし(「助け合わねばならない」だって…)、第一、この思考は「家族を持たない人間を除外していく考え方」につながってしまうと僕には思えます。
家族を重視することは、現在一人で生きている人、彼らの考える家族観から外れる者の存在を認めない考え方に思えます(「サザエさんが理想」だとか、本当に余計なお世話なのだけれど…)。

まあ、国家が暴力性を孕んでいるいるのは仕方のないことですが(もちろん抵抗はするけれど)、それよりも、社会に漂う「家族第一」という<雰囲気>の方が、無自覚な分だけ乱暴で恐ろしいなあ…と思うのでした。
ほんとにね、人は善意で(頓着なく)他者を排除したり傷つけたりするものなんだよな。

爽やかにさりげなく家族のことを語れる人もいて、そのあたりはやっぱりセンスなのかもしれません。
家族大好き!な人たちが「家族単位の思考」で生きていくことを僕は決して悪いとは思わないけれど、自分としてはもっと多様な個人の在り方が受け入れられる「場」が好きなので、せめて自分のかかわる場はそういう雰囲気になるような配慮をしていきたいと考えています。



・・・ところで私事だけれど、実は先日、僕にもまた(いわゆる)「家族」が増えました。
それは生物として、人間として、まずはとても喜ばしいことで、「世界からの預かりもの」の小さな人を精一杯育てたいと思っています。

が、同時に僕が考えるのは、「いかに家族観を再構築できるか」ということなのでした。
思考を狭めずに、家族単位の思考にならずに、家族という枠に閉じこもらずに、それぞれがこの世界で他者とつながっていける人間でありたいと思っています。


さらに余談だけれど、僕のじいちゃんが建てた墓には「伊藤家の墓」とかではなく、「倶会一処」と書いてあります。浄土真宗の言葉で「あの世で逢いましょう」って意味の言葉。
宗教用語だし、墓碑に時々用いられる言葉ではあるようなのですが、「○○家の墓」を避けたじいちゃんのセンスが、僕は好きです。
「家内安全」なんて考え方、ツマラナイからね。

posted by 野良人イトウ at 22:11| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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