2016年04月11日

いのちはめぐる。

3か月前まで住んでいた長沼の家(やその周辺)にはいろいろな「宝物」があります。
その一つがこれ。
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家の裏ある、これ、一体何でしょう。


・・・そう、堆肥です。
生ゴミや落ち葉や籾殻やヌカなどを混ぜて寝かせておいたもの。
これは3年くらい放置していたものです(1年に1回ほど切り返し)。
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人の世では、「役割を終えたもの」を「廃棄物」と呼びます。
生ゴミや籾殻もいわゆる「廃棄物(ごみ)」ですが、微生物やミミズたちの生命活動によって、とてもスバラシイ「他の生命を育むもの」に生まれ変わりました。

まあ、エラそーに声を大にするほどのこともない・・・当たり前の「自然の理」です。



Coccoさんのエサ用にと豆腐屋さんからもらってくるオカラ、暖かい場所に置いておくと1日で腐ってしまいます。
「腐る」のは「食べられない状態」です。

でも、不思議なことに、ヌカと混ぜて程よい状態にしておくと、「腐敗」しません。
1日置いておくと、逆に美味しそうな甘い香りがしてきます。
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僕らも食べられそうな感じです。
Coccoさんは喜んで食べます。
「腐敗菌」ではなく「発酵菌」と僕らが呼ぶ微生物がそこで生命活動を行うとき、こうなるのですね。
「発酵」は生命を蘇らせてくれる魔法のようです。



さて、僕は(一応)生きています。
だから・・・僕の体は腐りません。

もしも僕の心臓が今、止まったら、その瞬間から肉体は劣化し、様々な微生物によって腐敗していくでしょう(あ、鳥葬されて新鮮なうちに鳥に食べられるのもいいですけどねー)。
死ねば、腐る。
生きていれば、腐らない。
これもまた、「自然の理」です。

米や麦や豆、乾燥した状態で置いておけば、腐ることはありません。
水分がないことも理由の一つですが、最大の理由は、「生きている」から。
生きているから、腐らない。

モヤシにした大豆、生きているから、腐らない。
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でも、この子達の「いのち」が弱っていくと、一気にカビが生え、腐敗がすすんでいきます。
「死」、それが「腐敗」のスタートです。


鍋に入れて煮てしまうと、ダイズは死にます。
だから、煮たダイズは放っておくと、腐ります。
死んだダイズは腐ります。

でも・・・麹や塩と混ぜておくと、「腐敗」せずに「発酵」という作用になります。
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1年経っても2年経っても、食べることができます。
魔法のような現象です。



この、魔法のような現象、「発酵」が僕は大好きです。
だから味噌や醤油を仕込むとき、ワクワクします。
パン生地が膨らむのを見て、ドブロクやビールやワインがプクプク湧くのを見て、ワクワクします。
出来上がる過程だけじゃなく、もちろん出来上がったものを見ても、「うわぁー…」と言葉にならない感嘆が漏れます。
何度やっても、面白くて感激のある、素敵な時間です。

「発酵」という作用はすごいです!
それを見つけた人間の知、育んできた文化はすごいです!!



でも・・・

本質的には、もうちょっと「違う部分」に僕の敬意の念はあるのでした。

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これは、ウンコです。
たぶん鹿のウンコです。
別に僕のでも良かったんだけど、とりあえず見つけて写真撮っていたので、コレです。

山で見つけたコレは、鹿が排出したものです。
鹿にとっては「ごみ」です。

でも、コレは、いつまでもこのままあるのではなく、やがて消えてなくなります。
なくなるのは、誰かが食べるからです。

虫が食べ、微生物が食べ、いつしかウンコは地に還っていきます。
還ったものはもちろん、草や木の糧になります。



これは、おにぎり(つまり死んだ米)を入れておいたもの。
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ここに、カビがつき、いろいろな微生物がつきました。
そして数ヵ月後には、すべて分解されたのです。
この容器内の土には、「かつて米であったもの」が含まれています。


死んだ僕の肉体もまた、(鳥葬にされればまずは鳥の糧になり)腐敗していろいろなイキモノの糧になりながら分解され、地に還るでしょう(残念ながら現実的には燃やされるのだろうけど…)。

「死んだもの」や「ごみ」は、いろいろなイキモノの糧になり、地に還り、再び誰かの糧になる。
それが「自然の理」。

僕らが排出したもの(ごみ)や「死」は、必ず次の生命の糧になる・・・そんな「この世界の理」を想うとき、僕はただただ感嘆し、それを静かに成し続けるイキモノに対し敬意を持たずにはいられなくなります。
「発酵・腐敗」などと分けて考えることの人間の小ささが恥ずかしくなります。

僕らは日々、「死んだもの」を糧にしながら生き、やがて死ぬ。
死ねばまた、誰かの糧になる。
そんな壮大な物語の一部に自分がいることを喜び、生きている限りは精一杯生きよう(死もまた良し!)とも思うのでした。
発酵という現象に強く惹かれるのは、「死」→「再生」の間に自分の暮らし(生命活動)が組み込まれる感じがするからかもしれませんね。
僕らの生も死も、「大きな生命の渦」のほんの一部。それを「嬉しいこと」と僕は感じます。

・・・味噌樽を見ながら、ドブロクを見ながら、堆肥箱を見ながら、自分のウンコを見ながら、僕は常々そんなことを考えているのでした。
全部、つながっているよ。
posted by イトウ at 23:16| Comment(2) | 思想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
私の身体も、私が死んだあとは他の命の糧になってほしいです…。命の環のなかに私も帰りたいものです。
Posted by アカネ at 2016年04月14日 14:56
アカネさん、同感です。遺体については今の日本の法ではなかなか難しいけれど、せめて日々の暮らしを巡る中においておきたいですね。
Posted by イトウシンジ at 2016年04月23日 08:17
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