屠畜・精肉実習後の新田さんを囲んでの談話は、屠畜や家畜の話だけでなく、現代の社会問題へと話題が広がりました。そもそも、新田さんの今に至る経歴も、ご自身が感じてきた社会への問題意識が発端であるそうです。
15年前くらいに稚内でスタートした「ファームレラ」「スペースレラ」の活動は、最近の表現で言えばコミュニティビジネスの最先端。地域資源を持続可能な方法で活用し経済活動とする手腕はさすがです。
「論」と「実践」が一体となっていて、かつ常に自ら「汗をかき身体を動かす」その姿から、僕はいつも多くのことを教わっています。
新田さんが帰路につかれた後も、温泉、夕食、食後の歓談…と楽しい時が過ぎていきます。
今年の体験塾も全10回の9回目を迎え、5回あった宿泊も今回が最後。すっかり準・家族のように馴染んだメンバーとの名残惜しい時間を過ごします・・・が、実はただのんびりしていたわけではなく、定期的に麹や納豆のメンテナンスはしていました。今回のプログラムは(僕にとっては、ですけど)片時も気を抜けない2日間だったのでありました。
飲むモノは飲みますけどね。
そして、朝から酵母を起こしていたパン焼きが、20時頃からスタート。マサミさんお得意のカンパーニュです。
こちらも、僕らはチビチビやりつつ、小屋に籠って発酵させたり捏ねたりしている作業を時折覗きに行く感じで参加していただきました。
まずは「へえ、こんなふうにして作るんだなー」で十分なのだと思います。
24時をまわる直前、カンパーニュが焼け、起きていた方たちで焼き立てを味わいました。
翌日の朝食はもちろん昨夜のカンパーニュがメイン。焼きたてを食べ逃した人たちにもちゃんと味わっていただいてます。
2日目は塾生さん持ち回りのミニ講座から。
3年間タンザニアで暮らしたSさんの『ダルエスサラームどうでしょう』。実際に長期間生活していた人ならではのアフリカネタ満載の楽しい講座でした。
僕にとっても懐かしい雰囲気がたくさん。
Oさんの講座『10歳から学ぶ〇〇〇』は、アイヌ文化について。
かつて関西で教員をされていたOさんが、子ども達相手に10数時間かけて行っていた単元の一部を再現していただいたものでした。
アイヌの輪唱ウポポを実際にやってみると、場がとても不思議な空間に…。
本当は、ミニ講座の後は最後の畑仕事と味噌用青ダイズの脱穀の予定だったのですが、かなりの荒天だったためビニルハウスの中で説明しながら少しやって終了。
じっくり腰据えて皆でやるとダイズの脱穀作業も楽しいのですけど、とても寒かったので…(残りの大量のダイズは僕のがんばり次第です!)。
今回のフィナーレは、もちろん麹と納豆の観察と味見です。
まだ60%ほどの段階の麹ですが、表面にはしっかり麹菌が繁殖し、かじると優しい甘みが口に広がります。
保温容器から納豆の包みを取り出し、一人ずつ手渡し。なんだか卒業証書みたいでしたね。
この後、麹は翌日の夕方まで管理を続け、納豆はお持ち帰りいただいて夕方まで各自できるだけ40℃で維持。持ち帰ったものを味見するまでが体験塾です(笑)。
さて・・・。
「屠畜」は、体験塾の通年プログラムの中で大きな比重を占めています。「これを体験したくて入った」という方もいます。ただ、僕には実は、「屠畜をあまり際立たせたくない」という思いもあります。
前項でも述べたように屠畜実習にはいろいろな要素がつまっていて多くの学びがあるのは間違いないのですが、暮らしのつながりの「一コマ」に過ぎないという点が重要ではないかと思うのです。春から共に(生きた鶏のいる環境で)いろいろな経験をしてきた方が、信頼関係の中で行うからこそ、成立する実習だと考えています。
鶏の首を撥ね血が滴る光景は確かに刺激の強いものではあります。けれど、魚は誰でも同じように頸に刃物を入れるし内臓を取り出したりもします(自分ではやらない人もいますが、まあ、代わりに誰かはそれをやっているわけです)。肉や魚介類だけでなく、野菜だってその命を奪うことに変わりはありません。今回行なった「発酵」も、無数の微生物の死によって成り立っている行為です(だから今回の2つのメイン実習を一緒に行なえたことはとても良かったと思っています…大変だったけど…)。
そういうこと(つまり他の生命活動の利用や死)の積み重ねで僕らの食が成立していること(すべての動物は同じですよね)、いや食以外だって「暮らし」は他の生命を蹂躙することなしには成立し得ません。
本当は現実で、当たり前なこと、だけれど隠されてしまって見えなくなって、感じられなくなってしまっていること。
それらを一つひとつ直視して、体験して、罪の意識を持つのじゃなく「当たり前」として受け入れること。
・・・そうすることで、「では何が当たり前でなく、生き物としてズレているのか」「やってはいけない境界線がどこにあるのか」も少しずつ見えてくるのではないかと思います。
そしてそういう感覚も、やっぱり言葉ではないのだろうな、と思うのです。
言葉が不要なんてはもちろん言えないけれど、「体験」「五感」を伴わない言葉ばかりが飛び交う世の中(ネット中心で増々ね)において、五十嵐大介さんの漫画『魔女』の一つのセリフを思い起こさずにはいられません。
「あなた自身の体で…」
「世界を確かめて生きなさい」
(そのことについて書いた項)
体験塾を続ける理由は、きっと「その共有をしたい」ということなのですね。