結構深刻な状況であったのは間違いないと思います。
これまでの経験から言って、その子達の「死」も覚悟していました。
けれど今、その2羽は、まずまず元気を取り戻しています。
特に、目の力を失いかけてうずくまってばかりいた5歳のCoccoさんは、なんだか日に日に力をみなぎらせています。
なんと、最近は卵も産み始めました。
彼女を回復させたもの、それは「土」と「風」と「太陽」だと思います。
雪が溶けて小屋の外を散歩できるようになり、土をついばみ、新鮮な風に当たり、陽の光を体中に浴びるようになって、彼女はみるみる元気になってきたように感じるのです。
微かな灯火になっていた彼女の「生命力」が、土、風、太陽によって蘇ったのです。

僕は、ここでの生活で、同じような経験を何度もしました。
新鮮な風と太陽によって蘇る生命力、を目の当たりにしてきたのです。
そして、「土」が命の塊であることも、実感させられています。
たとえば、最近再び話題になっている「鷄インフルエンザ」。
あのような感染症が発生する環境は、ほぼ間違いなく、近代的な大量生産の養鶏場です。
人工的に管理し、土も風も太陽の光もほとんど与えられずに、「生産効率」を最優先させた、「経済的には優等生」の生産者のもとで、です。
衛生に気をつけ、徹底的に除菌し、それでも万一のことがないように様々な抗生物質を月替わりで食べさせた鶏から、あのような「病気」が発生しているのです。
考えてみれば当たり前のことでしょう。
徹底的に生命力を削ぎ落としたイキモノが、善玉菌も悪玉菌も日和見菌もいない無防備な環境に置かれ、自己の免疫力も失ったところに発生するウイルスや病原菌にヤラレるのは目に見えています。
当然の成り行き、と僕には思えます。
だって、鶏が健康的に生きるためには、「土」「風」「太陽」が不可欠なんだもの。
なのに、それらを奪った上に薬漬けにして免疫力さえ奪うんですから、病気に抵抗できるはずもないのです。
だけども思うのです。
それは生産者だけの責任じゃあないだろう、と。
「安い安い」と喜んで買う人間ばかりだから、そんな生産がまかり通るのでしょう。
というか、生産者として生き残るためには「安い肉・卵」を作らなければならない、と考えてしまうのも、わかる気がします。
だけどさ、そんな、「ほとんどビョーキ」状態の鶏の肉や卵、喰いたいか?
少なくても僕は、そんな肉を毎日食べるくらいなら、健康的な肉や卵を5日に1回食べるほうがいいです。値段が5倍高かったとしても。
・・・などということを教えてくれたのも、本ではなく、Coccoさんなのでした。
というか、本で得た「知識」を、実感を伴った「知恵」に昇華させてくれた、と言ったほうがいいかもしれません。
だから、僕にとっては彼女たちが一番の先生です。
(象徴的なのがCoccoさんだけれど、タネや味噌や雑草も「先生」と思っています)
「本」は大事。とってもオモシロイし、ためになる。
だけども、「それを本当に自分のモノにする」には、体に染み込ませる必要がある、と僕は考えています。
本を読み、ネットで調べただけで「わかった気になる」くらいなら、日がな1日Coccoさんと遊んでいた方がずーっとカシコクなれる気がします(つーか、ネットでわかった気になるのが一番ヤバイでしょ)。
だから、本はそこそこに。一旦読んだら、置いて体を使いましょ。
「みんなが自分で鶏を飼ったら、今より世界はずーっとマトモになる!」
と、僕は本気で思うんです。
ちなみに、弱ってたピヨコが回復したのも、ミミズ堆肥を食べさせてからです。
おそらく堆肥の中の有機物や、多種に渡る微生物が、彼女の生命力を呼び覚ましたのだと思います。
そのあたりは、きっと人間も同じことですよね。
うかつに抗生物質やワクチンなんて体に入れたら、本来あるはずの免疫力や生命力まで奪われてしまうでしょう。
病原菌に対抗するための自己の措置である「発熱」や「鼻水」「下痢」を薬で抑えたりすれば、病気が治りにくくなるのは当然のことでしょう。
大事なのは、そのイキモノが持つ「生命力」を奪わないこと。
・・・なんてこともね、Coccoさんを見ていたら本当によくわかるんです。
「書を捨てて鶏を飼えば?」
と、本気でお誘いしたくなってる春なのでした。
*ちなみに、『書をすてよ、街へ出よう』は敬愛する寺山修司氏の青春読書。氏の存命中に高卒くらいだったら、僕は迷わず天井桟敷に向かっていただろうなあ。
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