新聞も読む。本も読む。
人と話をする。人前で話すこともある。
そんな時に僕らが用いるのは、道具としての言葉。
そもそも僕は、言葉に救われ、言葉の可能性を信じ、言葉の世界を生きてきた。
自分を肯定するのが難しかった頃、先人が残した“言葉”という“意志や思想の痕跡”を辿り、自分の中でその言葉を反芻することで僕は生き延びてこられたと思っている。
だけれど・・・
最近は、言葉というものの“限界”を強く感じる。
言葉の不完全さ、不足、そして空虚さ。
いや、「言葉はすごいもの」だとは思う。
相手に何かを伝える際に、一番幅広く有効に使える便利な道具であることは間違いない。感情や意志や想像力に働きかける力だって、もちろん十分にある。
言葉で僕らは伝え合い、言葉によって考え、確認する。これからだってそうするだろう。
だけれど・・・
勘違いしてはいけない!と思うのだ。
言葉はしょせん言葉だ。便利だが、とてもアンバランスで不完全な道具だ。
そして・・・危険な道具だ。
いろいろ理由はあるけれど、僕が一番「ヤバいなあ」と感じるのは、僕らが言葉によって“わかったつもり”になってしまうこと。
この、“つもり”がとてもアブナイ、と僕は思う。
“言葉の限界”をとらえている必要がある、と思う。
自分がやってもいないことをやったように感じ、自分が見てもいないことを見たように感じてしまう。わかってもいないことをわかったように感じてしまう。
これは本当は、とても恐ろしいことじゃないだろうか。
このブログでも、日々、自分が感じたことや体験したことを綴っている。
もちろん伝えたくて書いているし、多くの人に読んでほしいと思っている。
けれど、一方で、「絶対にわかってはもらえない」と思って僕は書いている。
僕が見たものはやはり僕だけのものだし、僕が感じたことは僕だけのものなのだ。どんなに熟慮した言葉を使おうと、いくつの言葉を並べようと、僕の体験は僕だけのものであり、僕の実感は僕だけのものであり、これを読むあなたに同じことを感じてもらうことは到底できない。
もちろん、100%でなく半分、いや10%でも感じ取ってもらえたら・・・と願って書いてはいる。そのことにも価値はあると思っている。僕自身、これまでにたくさんの言葉を聞き、読むことで、いろいろなことを知り、感じてきたし、今僕がこうしてこんな暮らしを始めているのも、言葉によって情報を得て言葉による思考を経たからこそ、なのだし。
だからこそ、上手に言葉を使わなきゃならない、と思う。
丁寧に、そして謙虚に言葉を使わなきゃならない、と思う。
“言葉の危うさ”を常に感じながら言葉を使わなければ、と思う。
一応確認しておいた方がいいだろうか。ここで僕が言いたいのは、言葉の不完全さについてじゃない。
自分に染み入り、自分で消化した末に発せられる“自分の言葉”を得るための“体験”と“実感”こそが重要だ、ということだ。
これまでの自分は、いかに“体験や実感を経ることなく発せられた言葉”にまみれてきただろう。
右から左に流されるだけの言葉が、未だこの社会のほとんどをカタチづくっているという現実をどうとらえればいいのだろう・・・?
そんなことを考えているときに出会った漫画がこれ。
五十嵐大介著『魔女』だ。

この人の使う言葉は、どの作品を読んでも丁寧に選ばれている感じがする。
もちろんこれはフィクションなのだけれど、発せられるべくして発せられた言葉に満ちている。
魔女をテーマにしたいくつかの短編によって構成されているこの作品に登場する“魔女”たちは、通常僕らが想像する魔女とはやや違うかもしれない。
彼女たちは怪しげな薬をつくったりしないし、ホウキで空を飛んだり人に魔法を使ったりはしない(あ、ちょっとそういう話もあるかな)。
彼女たちが対峙しているのは、自分の目で見、自分の手で作り、自分の体で感じることを遠ざけて、空虚な言葉を弄ぶようになっている今の僕らの世界。“魔女”とはつまり、そんな社会から遠ざけられた存在なのだ。
中でも僕がヤラレたのは、『ぺトラ・ゲニタリクス』というお話。
山奥で暮らす魔女のミラと高い感受性ゆえに疎まれて捨てられた少女アリシアらが登場する。
「どうして本を読んではいけないの?」と問うアリシアに「あんたには経験が足りないからよ」「“体験”と“言葉”は同じ量ずつないと、心のバランスがとれないのよ」とミラは答える。そしてミラは続ける。「それより、せっかくの雪だもの・・・足跡を読みなさい」動物の足跡から情報を得る訓練をしろというのだ。
ミラだけじゃなく、山里の村で自給的な生活を続ける人たちの言葉も重みをもっている。
老女ハンナさんはジャガイモの選別をしながら、薪割りをするアリシアに語る(この場面設定と描写は、著者の体験なしには描けないもの!)。「今の若い人たちはどこに行くにもほんの2、3時間で着くのが当たり前と思っているけれど、その上にはそうできる仕組みを作るためにかかわった多くの人生が、膨大な時間が積み重なっているの。それを忘れてはいけないわ」「自分の“楽”は必ず誰かが肩代わりしているの。大きな技術に関わっている人たちがその事を忘れてしまうのは、本当に恐ろしいことよ」
・・・“自分の楽は必ず誰かが肩代わりをしている”・・・!!・・・僕は、この言葉に、今の社会が凝縮されているような気がした。この著者の漫画には、こういうセリフがさらりと出てくるから驚かされる。
羊飼いの老人ルドガーの言葉はこうだ。「ああいう連中は自分が何でできているか知らんのだ。」「連中はものをつくり出すことを知らん。生活を形づくっているものがどこから来ているか」「それは我々の根っこだからな。根がなかったら自分の力でしっかりと立っていることはできないだろう」「それで根のない噂にも振り廻される」
7年前の作品だけれど、まるで3.11以降の日本を見ながら描いたように思えてこないだろうか。つまり、火種は遥か以前から燃え続けていたのだ、目を逸らしていただけで。
やがて、人類全体にかかわるような事件が発生するこの物語の佳境において、自分を利用しようとする聖職者たちと対面してミラは語る。「自分の身を危険に晒さない者は口を慎みなさい」「あなた方の立場から見れば、わたしは2つの世界をつなぐ者。言葉のある世界と言葉のない世界の」「あなた達の世界は“有限”。わたし達の世界は“無限”。あなた達の言葉は、ありとあらゆる可能性を特定の性質に切り分けるナイフ。自分達の都合のいいように世界を切り刻む道具」「わたし達は世界をあるがままに見る」
利用された挙句に世界の果てに追いやられることを自ら選んだミラに祈りの言葉をささげる聖職者たちに向かって、アリシアは叫ぶ。「ミラをウソで送るのはやめて!」「いちども空を見たことがない人が“晴れた空は青い”と言ったら、言葉は間違ってなくてもそれはウソなんだわ」「わたしたちは全身で見て、全身で聞いて、全身でニオイを嗅ぎ、全身で触れるんです。自分の体に相手を受け入れて、融け合うんです。そうでないと・・・・・」
「穢らわしい!子供がなんということを口走るのだ!」「子供とは言え魔女は魔女なのだな」「もうたくさんだ・・・」罵りながら聖職者たちは去ってゆくが、若い一人の、(ミラを信じる)若い聖職者はアリシアにつぶやく。「僕も、“言葉”でなく“行い”を見ろと、ミラに教えられたよ」
・・・なんてことをここに書いたところで、わからない人にはわからないし、それでいいのだと思う。
言葉によって“わかったつもり”になることほど恐いことはない。
わからないことはわからない、でいい。
自分で体験し、自分で感じたこと以上のことを“わかったつもり”になる悪癖をやめなければ、と思う。
言葉による感動など、最初から疑うべきじゃないだろうか。
僕らはこれまで、見たこともないのに「青空は青い」と見たような言葉を発してきた(学校なんて、まさにそういう場所だったな・・・)。
それはきっと、この世界を歪め、自分の感性を歪めるだけでなく、その言葉自体も貶めてきたのだと思う。
ミラの言葉を借りるなら、

自分自身の体で、世界を確かめながら生きたい、と思う。
そうすればきっと、もっと豊かな自分になるし、この世界だって変わっていくだろうと思っている。
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そう子供のころ感じていました。
絵が好きで12色のクレヨンじゃそれを表現できなくて小学校の頃、絵画で賞をもらい48色のクレヨンが賞品で本当に嬉しかったことを思い出しました。
大人になるとなぜかそんな感性が萎んでしまう気がします。
あのころのように世界を見渡せたら、魔法のように世界が広がるのだろうな。
人の言葉はその人だけのもので、また、その人もその言葉のもつ力によって、操られていってしまう。誰かの言葉を受け入れてしまうことで、自分自身を見失ってしまうことがある。そんなことを今まで学んできたように思います。
言葉の大切さ、そして「有言実行」の重要さを知りながら、それを自分のものに出来ていないもどかしさ。
それでも人は言葉をつかう。
言葉のもつ危うさもあるが、言葉のもつ限りない包容力や思いの深さもある。
一生、心の残る言葉というものもある。
人が死んでしまっても後世伝え続けられる言葉だってある。
だからこそ安易に意味のない言葉を発するのではなく、謙虚に使うべきものなのでしょうね。
「自分自身の体で、世界を確かめながら生きたい」伊藤さんの言葉はストレートに届きました。
自分の目で見て感じ、自分の手で触れ、心に刻むことこそが、自分自身の生きる世界を知ること。そう思います。
そして、私もそう生きたいと思います。
ああいうのも、僕は危険だと思っています。
「植物は夜があるからこそ朝日を受けて花を開く。だから夜は大切なのだ。厳しい今の時期は、朝日を迎えるための大切な闇なのです」・・・なんて言われて、「ありがたいありがたい!」「感動しました!」・・・と、思う人もいるのでしょうけど、それでは単に情報を右から左に移しただけなのです。
大事なのは、その人の肉体を経ているかどうかだと思います。
その人が実際に植物を育てたり観察したりして受けた「感動」から発せられた言葉なのかどうかは、実はよく聞いていればわかります。
話し手の肉体を経た実感は、間違いなく言葉に乗り移りますから。
「○○さんから伝え聞いた感動的な話」に踊らされる感性は、根も葉もない噂に振り回されるものと同じではないでしょうか。
大事なのはやっぱり、言葉と体験のバランスですよね。それがフィットした時、「生命に対する揺るぎなさ」を全身で感じることができると思います。
そんなふうにして言葉というエネルギーは、誰かの明日を動かすかもしれませんね。
いままで私は、なんとなく言葉を使うことを恐れていました。
偽善者のにおいがしていたからかもしれません。
自分の肉体を通して得た、心からの言葉を発することが出来るようになりたいです。
「生命に対する揺るぎなさ」を全身で感じるってどうゆうことだろう。
これからそれを探る楽しみが増えました(笑)
僕だってほんの入り口なのだと思うのですけど、それでも「この感覚があれば十分だな」と感じることがしばしばあります。
僕はもともと他の方以上に「生きづらい」と感じながら生きてきました。「さっさと終わりにしたい…」という思いを持ちながら生きていました。それ故、本もたくさん読みました。音楽も絵も映画も必要としました。
でも、仕事や人との関係を経て、地に足がついていく感覚を持ち始めました。
障害を持つ方々との仕事は特に僕にいろいろなことを教えてくれましたし、死にゆくための場所としての特別養護老人ホームでの仕事も、食べ物を決して大切にはしない全国チェーン店の居酒屋での仕事も、僕にいろいろなことを教えてくれました。
もちろん、家族、友人、知人との関係も、シンドイことも多かったですが、100%、今の僕になるために必要だったという実感があります。そういう経験だって、今の自分につながっています。
長沼に来る前、大学に通いながら自分の畑をやり、夜勤の介護を務めていました。3時間睡眠とかも日常でしたが、その期間、無茶苦茶本も読みました。常に30冊ぐらいを図書館で借りながら、「農業」「自然」「環境」「経済」「社会」「歴史」等々、必要だと感じる本を読みまくりました。
それが今、自分の体験と結びついていってるのを感じます。
これまでに得た「知識」が「実感」と結びついていってるのを感じます。
自分の中で、言葉と経験のバランスが取れていくのを感じています。
それはそのまま、これまで決して得ることができなかった「生命に対する絶対的な確信」にもつながっていくように感じています。
僕は言葉を不必要なのだと考えているのではなくて、あくまでもバランスが重要だってことです。
ある時期に、無茶苦茶本を読むのはいいことだと思います。その分、後から無茶苦茶濃い体験を積んでいけばいいんです。
そしたら、じぶんのなかでびっくりするような感覚が得られると思いますよ。
・・・ってことを今の自分の実感として、リアルタイムでお伝えしてます(笑)。
伊藤さんの言葉にインスパイアされて、
自由奔放に思いつくまま書いたので、
きっとからみずらかったのでしょう(笑)
目の前の人が、どんな思いで今まで生きてきたかとか分からないものですね。
伊藤さんのいうように、人の経験はとってもオリジナルで、他の誰かがすべてをわかるものではないのでしょうね。
でも、ある意味、勘違いだったとしても、心に響いたり、共感したり、触れたりすることはできると思います。
そんなふうにして人と人との距離があるとき近づいたりするのかもしれません。
伊藤さんは今までの沢山の真摯に向き合ってきた経験があったからこそ「生命に対する揺るぎなさ、絶対的な確信」を感じれるのですね。
手抜きのない感じが、私にはない要素ですが(笑)
いつかそう実感できる日がくるといいなと思います。