2011年09月10日

あらしの朝に、オロオロ歩き…。

台風が過ぎても雨は続き、畑はひどい有様です。

ここの畑は特に水はけが悪くて1日どしゃ降りになっただけでもドロドロぬかるみになるくらいですから、今回のように大量の雨が降り続くと、まるで田んぼのよう。さらに、土が緩んだところに強風・暴風が吹きつけたので、根の張りの弱い作物や丈の高い作物はみんな“ピサの斜塔”状態になってしまいました。
そもそもここの作物たちはあまりに固い土のために根をしっかり伸ばせずにいますから、こういう時はホントに気の毒な状態になってしまうのです。う〜ん・・・。
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復旧作業、ぼちぼちです。

多湿に弱い作物は、かなりヘタっています。心配です・・・。
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キュウリは大丈夫と思ったのですが、支柱ごと一度倒れかけたので、1株は枯れてしまいました。
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思うようにはなりませんねえ。
決して人間の都合どうりにはいきませんねえ。
・・・それが“自然環境”です。

今回の豪雨はまた、たくさんの被害を生んだみたいですし。
基本的に厳しいもの・・・それが自然環境だと感じています。



だから、“環境保護”だとか“自然にやさしく”などという表現には、強い違和感を覚えてしまいます。
以前は僕も普通にそういう物言いを平気でしていましたし、“環境問題”をライフワークの一つと考えて“環境保護運動”なんかにかかわったりもしました。

でも、なんかもう、違うんです。
自然環境は、保護するようなものじゃないと感じます。

だって・・・僕なんかよりもよほど大きな存在だもの。

(ちなみに“環境”という言葉は、実はちょっと広すぎて使いづらい言葉です。一般に“自然環境”とイコールで使われたりもしますが、その使われ方はあまり適切ではないと感じます。人間関係や人工物も含め、自分を取り巻く客体は総べて“環境”でしょうからね。おそらく、日本語には本来なかった言葉を英語にあてはめながら無理やり作り、使うからこんな不具合が起こっているのでしょうね)



「“環境保護”なんてクソくらえ!」
「“自然”なんて守らなくっていい!」


そう“感じる”ようになったのは、やはりここ1〜2年のことです。
地面に近いところで生き、自然と対峙しながら生きようとすればするほど、自然の驚異を覚えます。
大きくなるのは、自然に対する畏怖、畏敬。
やさしく、ときに気まぐれに厳しい天候に、草が茂る脅威に、虫が群れを成す姿に、結局僕らは・・・オロオロするばかりです。

いや、実際、怖いですよ、自然。
災害を招くような天候の事ばかりじゃなく、草も虫も木も鳥獣も、菌やカビたちも、僕なんかよりもはるかにたくましいと感じます。
自然のたくましさや回復力について、知識では知っていたつもりだけれど、ここまで感じてはいなかったです。実感したことがなかったです。
人間が加えたダメージなんて、時間さえかければ自然はいくらでも取り戻していくんじゃないでしょうか。
本気で、そんな風に感じます。

繁栄極める巨大な都市だって、いつかやがて鬱蒼とした森に還っていくんじゃないかな。
アンコールワットみたいに・・・。
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“環境保護”や“自然にやさしく”などという発想は、おそらく都市から生まれたものだと思います。
どう考えても、地面から遠い場所で生きている人間の思考だと感じます。
きっと、エアコンの効いたビルディングのオフィスで、デスクに座って「あーだ、こーだ」としゃべくっているような人たちが作り出したものだと感じます。
大事なことはみんな人にさせながら、人に殺させながら、殺し方に文句をいうような人たちが、「だけども自分は善なる存在であると思いたい」衝動に突き動かされて作り出した思考。

自分で獣を屠り、食べ物を探して森を歩き、タネをまき、地面に這いつくばって生きる人たちからは、そんな思考は生まれてこないでしょう。

何故なら、“自然”が自分なんかより遥かに大きな存在であることを知っているから。

ほんと、“自然を保護する”だなんて傲慢な発想は、“自然を思うままにできるという驕り(っていうか勘違い)”から生まれてくるんじゃないだろうか。

自然はそんなにヤワじゃないでしょ。



自然ガイド系の方々が環境保護・自然擁護を訴えるのは、きっと彼らが“都市型”の人間だからだと思います。“都市型”ってのは、つまり、自分の食べ物を自分で直接調達しない人たち。生きるのに不可欠なものを誰かに作らせて生きてる人たちです。農村や自然に近いところで生活していても、食べ物を人に作らせる生活は“都市型”だと思います(だから僕だって、半分は都市型の人間です)。



環境系の活動で、しばしば、先住民族の方々の知が取り上げられます。
アイヌやネイティブアメリカンの人たちの世界観が「スバラシイ!」って。

たしかに彼らの世界観、思考、文化は優れていると思います。僕も敬意を持っていますし、参考にさせていただくことも多いです。
でも、先住民族の人たちにとっての“自然との共生”は、近現代の都市型人間の考えるそれとはまったく違うんじゃないでしょうか。
アイヌの人たちは、決して自然(=カムイ)を“保護”したりはしないです。畏怖と畏敬の念を持ち、自分たちのために“維持”するのです。人間が、自然の恩恵を受けて存在していることを誰よりも知っているからこそ、自分たちの使いやすい状態の自然を“維持”しようとするのだと思います。

自然環境は、壊れません。
そんなにヤワじゃありません。
だって、砂漠だって自然でしょ。
長い長い時間をかければまた、森に還っていくかもしれないし。
チェルノブイリにやられた森だって、放射能を残したままだけど、回復していってます。

・・・ただ、人間は、住めない。
そこで人間は生きられない。

人間は、緑の濃い森を見て「豊かな自然だ」「スバラシイ」と感じ、砂漠や禿山を見て「自然が壊れている」と考えます。
けど、本当はどちらも“自然”です。
人間が感じられないだけで、砂漠にだって多くの生き物が適応して生きているし、時間の経過とともにそれは豊かになっていきます。勝手に、多様に、複雑になっていきます。



とてもとても重要なのは、人間がちっぽけな存在である自覚を取り戻すことなのだと思います。
「自然がかわいそう」
「傷つけられれてる自然をまもってあげなきゃ」
「地球にやさしい生活をしなきゃ」

なんて、傲慢な考えを捨てることだと思います。

人間は、人間のために自然を“維持”しなきゃならない、という自覚を持つべきなんだと思います。
フワフワした都市型の生活から生まれた“自然保護”には、「…とはいえ自分は、自然がなくても生きてけるんだけどぉ〜」っていう余裕を感じるのです。…それは勘違いなんですけど。
「自然と離れたところで、自然の恩恵は受けずに生きている」という勘違いが生んだ「かわいそうな傷つきゆくものを保護してあげなきゃ」という傲慢!!!



そうじゃないだろう!?
と、思います。

気温も湿度も調整された部屋で、パッケージされたものばかりを食べて生きる生活では感じにくいけれど、本当は、どこまでいっても人間は自然の恩恵にぶら下がって存在しています。
人間も、虫も、植物も、基本的には同じです。
自然の中で、自然にまもられ、生態系の一員として、恵みの中で生きています。

人間が存在できるのは、“人間が存在しやすい状態の自然”が残っているからです。
人間が「まもろう」としているのは、あくまでも“人間が存在しやすいタイプの自然”だっていうことを自覚しなきゃ、と思うのです。
人間のために。

だから、そこで使われるべき言葉は、やはり“保護”ではなく、せいぜい“維持”でしょう。
ちっぽけな人間が、自分たちの存在しやすい“環境”を維持しようとする。
・・・それでいいじゃないですか。
・・・それが重要な点じゃないですか。



「自然をまもろう」だなんてさ、ほんと傲慢で気持ち悪い表現!!!
アンタ、何様?
神様かよ!?


自然の驚異に振り回されつつ、恩恵に感謝しつつ、オロオロしつつ、朝日に喜び、「明日も穏やかな日でありますように!」と夕日に祈りつつ、懸命に日々を生きる。
それだけの存在じゃないのかなあ、人間なんてさ。

自分の力、そして自意識を肥大化させ勘違いした都市型思考によって、自然が“人間の存在しにくいタイプの自然”になっていくのなら、それも一興。この種が滅びるだけの事です。大したことじゃないです、きっと、“自然”から見たら。

だけどさ、それはちょっとヤダなあ、と思うから、僕なりに懸命に、今の自然の“維持”に努めますけどね。
オロオロしながら種をまき、発芽に心躍らせ、攻めてくる草を引っこ抜き、…で、ときにはこうやってつぶやいたりもしてさ。
posted by 野良人イトウ at 08:31| Comment(0) | 思想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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