2011年09月01日

飼われるものたち。

鶏は人間の与えるエサを主に食べ、人間の拵えた小屋を住みかとし、安全を保障されながら生きています。
生存を守られながら生きています。
安全を他者に保障されるってことは、自由を制限されるってこと。
決められた時間内、決められた範囲内の自由。

人間は見返りとして卵をもらいます。
鶏にとっては、すでに温めることもない産むだけ、産みっぱなしの卵。
彼女たちにとってはそれ程必要ではないもの。

・・・という設定自体が、“人間の、人間による、人間のための関係”ではあるけれど、とりあえず日々、鶏たちにも大きな不満はないように思われます。
あくまで人間中心の、けれどもコレも一応、“共生関係”。



猫も人間が与えるエサを毎日食べ、人間の住む家を住みかとして、安全を保障されながら生きています。
生存を守られながら生きています。
病気や怪我の時は病院に連れて行ってもらうこともあります。
安全を保障されるってことは、自由を制限されるってことで、決められた時間内、決められた範囲の自由・・・なはずなんだけれど・・・猫たちは結構気ままです。

最近は時折外に出したりもしてるのですが、出していないはずの時にしばしば外にいるのを見かけたりして驚かされます。
戸もちゃんと閉めてあるのに。
「あれ?なんで外にいるんだ?!」
RIMG0645.JPG

家中の窓を確認したら、一か所、ちょっとだけ開いていました。どうやら自分で開けたようです。
今は出ちゃダメ!ってときでも勝手に出ちゃうし、もちろん活動範囲を人間が設定することもできません(首輪でもつければ別ですけどね)。

「キ、キミたち、気まますぎる・・・」
RIMG0593.JPG

RIMG0597.JPG

のぼる猫.JPG

ちょっと家を空けて戻ると、散らかり放題だったり。
RIMG0589.JPG

昔みたいにネズミを捕ってもらうためでもなく、鶏とちがって何かを明確に得られるわけでもないのに、何故かできてしまう“共生関係”
猫は不思議な存在です。
人間が設定した“ペット”というカテゴリーの中でも、かな〜り上手に、彼らなりに“自由”も謳歌しつつ保たれている関係。



そして、その2者(鶏と猫)のどちらとも異なる存在だったのが、ウサギたちでした。
家畜でもなく、ペットでもなかった。
明確な位置づけがないってことは、扱う側の覚悟もあいまいになるってこと。
それ故、あんなことになり、お互いシンドイ事態に陥りました。

今はここにウサギはいないけれど、メノビレッジのウサギを屠畜しようという話が出ています。
ウサギを、はっきりと(食料としての)家畜として飼えるだけの“技術と覚悟”を持とうって話。
日程はまだ未定ですが、10月くらいに、できる方に来ていただいて教えてもらう予定です。
僕は哺乳類を屠畜したことがないので、実は・・・かなり怖いです。
でも、やれるようになりたいと思っています。
豚も牛も、日々食べているのですから。



さて、今週日曜日には、体験塾で鶏の屠畜実習をします。
“屠畜”を刺激的な体験として行うのでなく、“家畜と人間の暮らし”を広く深く考え、感じる機会にしたいと思っています。



・・・で、翻って人間。

誰かがどこかで育て誰かが殺した生き物を食べ、誰かが作った家に住み、誰かが作った物を着、誰かが作ったブームに踊り、誰かが作ったエネルギーを消費し、誰かが作った薬を摂取し、誰かに安全を保障され、誰かに安心を担保してもらいながら生きています。

“自己家畜化”と引き換えに手放したものは何か。
それを考えることが僕の毎日です。
それを少しずつでも取り戻したいと思っています。


posted by 野良人イトウ at 07:00| Comment(0) | 家畜 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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